この大震災で被災地や避難所の様子はニュース映像などから伝えられていますが、障がい者たちの様子があまり伝わってきません。
健常者でさえ大変な状態のなかで、いったいどのように過ごしているのでしょうか。
もし、被災地またはその付近でこのブログを読んでいる方があったら情報を伝えてください。

自分の身の回りのことならできる人であれば、10人程度までお引き受けすることができます。
緊急に避難が必要な方についてはお申し出ください。
ただ、当方は重度の方を受け入れられる施設でなく、生活支援員が不足していますので自分の身の回りのことができる人ということになります。
それ以外の方は、地元の行政または県の出先機関にご相談ください。
行政との連携で支援を行いますので、下記の条件をお読みのうえご連絡ください。
●条件
・障がい者手帳を交付されている人。
・住民票の移動が可能な人。
・自分の身の回りのことは自分でできる人。
・共同生活が可能な人。
・今後の自活の道を探ってゆきたい人。
障がい部類は問いません。
問い合わせ、連絡先
信州こころん 担当・伊藤
0265-97-7786
E-mail: info@cocoron.saloon.jp
今できることに全力を!

震災・津波から一週間を経過し、なお瓦礫のなかから救助された人がいるという。
どうか被災地での生存確認を諦めないでもらいたい。
また、原発事故を押さえ込むことは大事だが、それはプロ集団に任せるしかない。国民はそこだけに眼を向けるのではなく、まずは被災地の避難所で救援を待つ人々を助けることに全力をあげて欲しい。
被災地報道のありかたや、同情だけしていて何の役に立つのか、化粧した女性レポーターが…といった八つ当たり的意見も散見するが、今は足の引っ張り合いをしている時ではない。スタンドプレーであれ、どんな方法であれ、何もしないよりはいい。自分のできる方法に全力を尽くすことこそ必要なのだ。小銭の義援金だけでも立派な支援だ。
被災地でのネット環境はどうなっているのであろうか。携帯のモバイルなどは役割を果たしているのであろうか。食料や燃料、寝具などが必要なのは当然だが、それと同時に大切なのは情報を正確に伝える手段だ。
すでに救援物資は、集積所に山積しだしている。ただ、配分などにあたる行政機能がマヒしていたり、それぞれの避難所に配達する輸送手段が不足していて届けるのに遅れている状態になっているようだ。
避難民の方々も、すぐそこまで物資が届いていることがわかれば少しは不安が薄れるのではなかろうか。また、近くであれば取りに行くことも可能だ。
僕も阪神大震災のとき、仲間と緊急物資を届けたり炊き出しに訪れたりしたささやかな経験をもつが、個人的活動でできたことは砂に水を撒くほどの虚しさに思えた。せめて市町村単位でまとまっての支援体制を組むことで、生きた活動がしやすい。
当市でも、毛布や物資を送る準備をしている。また、避難される方々を受け入れる市営住宅や空き家の点検に入っている。全国の自治体で、支援へのさまざまな取り組みがされているはずだ。
被災地の皆さんが、けして取り残された状態でないことを知っていただければ、多少なりとも明日への希望を見いだすことができるのではないだろうか。
また、受け入れる側の自治体に提案したいのは、なるべく避難所ごとの希望者を集団で受け入れるようにしたらどうだろうか。家を失った個別の家族が避難して来て、落ち着いてから見えてくる彼我の差を感じたときの孤独感は並大抵のものではないはずだ。
被害者として同じ境遇にある方々が近くで励まし合って過ごすことができれば、それは部外者にはけして与えられない力となることだろう。ぜひ、検討していただきたい。
また、そうした場合、小さな自治体では負担が大きすぎて難しいことも考えられる。広域に連絡をとりあって、県単位で支援の分担を振り分けるなどのところまでできないものか。
避難所でのお年寄りも相当数になるようだ。対応が一日遅れれば、それだけ多くの命が失われることになる。一刻も早く対策をたてて実行して貰いたい。
がんばれ被災地! がんばれ東日本!

歩幅
時速百キロが出る車椅子があったら
乗りたくなるかもしれない
坂道を一気に登れたら
どんなに気持ちがいいだろう
風を切って走る気分は
どんなに爽やかで 素晴らしいだろう
何処へでも自由に行けるかもしれない
雲と追いかけっこが出来るかもしれない
だけど
やっぱり
父母が
家族が
ゆっくりと
やさしく押してくれる車椅子が
一番好きなのです
彼女は向日葵の髪飾りのウエディングドレスと向日葵のブーケ、僕は馬子にも衣装の言葉がぴったりのタキシードでのパーティーで、二人の好きな谷川俊太郎の「川」と「ここ」という詩を二人で朗読した。それは二人の誓いの言葉でもあった。詩の朗読は、パーティーの日まで二人で何度も練習したので、お互いの連帯感も強まり、更に気持ちが通じ合ったような気もする。
実は二人での詩の朗読はとても照れくさくて、練習の時には顔を見合わせて何度も吹き出して笑いが止まらないことがあった。誰もいなくても想像以上に照れまくる。だから、本番で笑い出してしまわないか心配だったが、何とか笑わずに無事に終ってホッとした。
中学生の時、クラスメイトだったE君がパーティーの司会を、もう一人の中学時代の友人H君が写真撮影全般の手配をしてくれて、無事に結婚パーティーも終わった。二人とも昭雄のためならと快諾してくれた。
彼女のお母さんには心から「ありがとうございました」と、お礼を言いたかった。また、両親、遠くから駆けつけてくれたネット仲間、そして出席してくださった皆さんに感謝の気持ちで一杯であった。その結婚パーーティーでは、あまり言葉を発しなかった父が、最後には男泣きしていたのを今でも鮮明に覚えている。
父は父でそれまでの様々な出来事を思い出し感極まったのだろう。苦しかったこと悲しかったこと悲喜こもごもが一気に蘇り、噴出す感情を抑えきれなくなったのだと思う。苦労をかけた僕としては、そのことを十分に察して肝に銘じなければと思った。父は年々涙もろくなったような気がする。元々涙もろかったとしても以前より顕著になってきている。両親にとっても僕にとっても、人生の一つの区切りになったことは確かだ。
こうして二人の生活は始まった。
ひまわり抱擁 青空の匂いする 昭雄
今日からはここが私の青い空野辺地の空を君とみつめる 宏子
柴崎昭雄著『ゼロの握手』(リトル・ガリバー社 1400円+税)より
著者の柴崎昭雄さんは僕らとおなじ川柳仲間で、詩人でもあります。
18歳のときの交通事故が原因で、首から下の機能を失うという重傷を負い、現在は車椅子での生活ですが、ご家族の愛情に支えられながらわずかに動く腕をつかって、自分の生活を立ち上げています。
こうした本につきもののお涙頂戴の内容ではなく、ときには自分の不自由さを笑いのタネにするほど乾いたタッチで、周囲の人々との交流をユーモアとペーソスあふれるドキュメンタリーにまとめています。
月並みに表現でしかありませんが、この本を読むと勇気が湧きます。どうぞ、一読を!
本の帯です。
ひとりじゃない。
突然の不幸の事故。
それが18才の始まりだった。
奇跡的に命を取り留めるが頚髄を損傷し、診断は全身麻痺。
もし、青年を励ます家族や友人がいなければ、そして、詩や川柳にめぐりあわなければ……。
ここから買うことができます。なお、彼のHP
木馬館は、昨年の信毎ホームページ大賞ブログ部門優秀賞を受賞しています。

蝶クリック

Rinnさん
質問があります。alexさんのところのコメントを読んできましたが、放哉、山頭火、この住宅顕信も荻原井泉水の「層雲」の同人ということで、『なるべくして、層雲に集った人々はなぜか破天荒な破綻願望的なところがあります』と書かれてますね。
どうして『なるべくして』なのか、解説お願いできませんか?
これを誤解のないように説明するには、ちょっと長い前置きが必要になります。そして、あるいは僕の思い過ごしによる部分もあるかも知れません。そのことをお断りしたうえで書いてみましょう。
まず、基本的な知識として日本の短詩の歴史を追ってみます。
長歌などを経て貴族階級の詠嘆や恋文(相聞歌)としての和歌が平安時代頃に盛んになったことはご承知のとおりです。
その和歌の「五七五七七」というリズムを「五七五」と「七七」と交互に歌うあそびが連歌で、さらに七七を取り去って五七五の発句のみで書いた詩が俳諧と呼ばれていました。
俳諧は、語呂合わせや冗談を多用した作品で、マスコミでみかける川柳に近似したものです。俳諧師たちは、ユーモアや冗句、人々の機微などの句を募集して、高点を競わせたり、人々は座を開いて作句を競い合いました。実は、現在の川柳界にもこのスタイルが色濃く残っていますから、川柳が俳諧を継いでいるともいえます。
そこに現れたのがご存知松尾芭蕉です。芭蕉は荘子の思想の影響を強く受けていました。荘子は、理知の価値を低く見て、作為や功利主義を否定した思想家です。一見無用に見えるものの中に本当の価値があり、自然の法則に逆らわないことが正しい生のありかたであると説いていました。
その思想を受けた芭蕉は、(特に発句における)思想性を重視し、芸術至上主義の俳諧を始めました。
正岡子規は文学者として、短歌・俳句・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に活躍した人です。子規は俳句は「写生」にあると説き「写生・写実主義」を掲げました。
これは、ヨーロッパにおける十九世紀自然主義の影響を受けて、写生・写実による現実密着型の生活詠を主張したものです。そのことが俳句における新たな詩情を開拓すると考えたからです。
その子規に教えを受けた人、高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節ら錚々たる門人がいます。
そのなかで、高浜虚子と河東碧梧桐は俳句での弟子でした。高浜虚子は子規の考えをさらにすすめる形で、「客観写生」からさらに「花鳥諷詠」重視へと方向を向けて、俳句を導いていったわけです。
これが「ほととぎす」の俳句といわれ、現在までの俳句の主流派となっています。
これに対して河東碧梧桐は、虚子とは子規門下の双璧と謳われましたが、伝統的な五七五調、花鳥諷詠に囚われることなくもっと自由に詩情を詠うべきだと虚子と激しく対立しました。
そして、新傾向俳句から更に進んだ定型や季題にとらわれない生活感情を自由に詠い込むとして、そんな思想を共鳴し合う自由律俳句誌『層雲』を主宰する荻原井泉水と行動を共にします。しかし、その後、井泉水と意見を異にし、層雲を去りました。
というような俳句の歴史があって、「自由律俳句」というものができてきます。いわゆる俳句の王道から逸れたふたりの思想を、井泉水は「真実を求る心」のなかで次のように述べています。
「われわれは旧来の俳句において俳句という既成の型を与えられていた。それに当てはめて句作していたので、俳句という詩のリズムをさながらに表現することが許されなかった。それは俳句の形式に捉すぎてその精神を逸していたのであること、在来の俳句に付随している約束や形式は俳句が詩としての自覚を得るまでの揺籃に過ぎない。世間の俳人はその約束を本性と混同し、形式を内質と誤解している。」
という意見です。放哉や山頭火といった、社会からのはみ出し者の心境を詠うのに、どちらが適しているかはもういうまでもないでしょう。
しかし、人々の多数は花鳥諷詠へのながれをたどる俳句に、芸術としての姿をみて、俳句の大きな流れはそちらに傾いていったわけです。
その後も、その流れや体制になじめないもの、いわゆるはみ出し者が「自由律俳句」という世界に心地よく肌があった、ということなんだろうと、僕は感じています。
「層雲」の(過去の)俳人たちの幾人かを知っていますが、その共通するところが、形式にとらわれることを潔しとしない人が多いのではないかというイメージをもちます。もちろん、そうでない平凡な生き方を好んだ人もいたのでしょうが、なぜかその中には記憶に残る作品が少ない。
ずいぶん回りくどく書いてきましたが、俳句のたどった歴史のなかで、流れをみると、『層雲』にどんな人がシンパジーを感じたのかがおわかりだと思うのです。
ここでは、「自由律俳句」に力点を於いて語りましたが、伝統的俳句には当然ながらその良さがあります。季語というキーワードの力をつかって、一句としての形の美しさをきわめるという、華道や茶道の精神にも似た世界があります。華道の世界が伝統俳句とすれば、ガーデン園芸が自由律といった趣でしょうか…。
なお、『層雲』という本は今日でもありますが、幾度もの分裂を繰り返したのちのもので、当時のものとは似て非なる結社ともいわれていますが、詳しいことはわかりません。
ちなみに、俳諧の本流だったはずの川柳は、ずーと専門家や学者からはダジャレ文芸として蔑まれながら、試行錯誤をくり返し生き延びてきました。ひとつには、近代日本の育ちつつあった社会では“笑い”を軽んじて、質実剛健、侘びさびこそが芸術というような偏見がつづいてきたからです。これも、芭蕉以来つづいた“芸術”というものの固定観念がさせているものでしょう。
川柳は、笑いはひとつの大切な要素ですが、それだけではなく、俳句のような約束事に縛られすぎない“言語形式”からの芸術や言葉の拡がりや遊びをも模索しています。そのために、現在ではさまざまな思想ごとに作風も異なっています。これもやがては、3つ、4つの流れに収れんされてゆくべきではないかと僕は考えていますが、簡単にはいかないでしょう。
その主流はやはり、現状に甘んじたままの句会優先主義にどっぷりと浸かっていたり、ごく一握りの川柳人のみで理解しあう、一種の(川柳的)エリート主義の淵からの拡がりにつとめていないからです。
どんな文芸も、ジャンルを離れてひろく人々の共感や気持ちを捉える要素をもっていなかったら、それは真の芸術とはなり得ないと思っています。
川柳は、その自由度や題材において、文芸としての可能性を秘めていながら、人々の絶対的な支持を掴み得ていません。ぼくも川柳人を自認しながら、放哉や山頭火、そして今日紹介した住宅顕信といった「自由律俳句」の表現者たちの、優れた作品を仰ぎみているのです。
蜂クリック

てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。
安西冬衛
木の椅子に膝を組んで銃口を鼻にする。蒼い脳髄で嗅ぐ硝煙の匂が、私を内部立体の世界へ導いた。
私を乗せた俥は公園に沿うて坂を登っていった。曇天の下でメリイゴオランドが将に出発しようとして、馬は革製の耳を揃へてゐた。しかし私を乗せた俥は、この時もう曇天を堕して坂を登り尽してゐた。
私は遊離された進行に同意する。
彼女は目を眠ってゐた。壁に垂れた地図に横顔をあてて。彼女の肩を辷つて青褪め韃靼海峡が肩掛のやうに流れてゐた。
流れる彼女の眸子はいつも榲つてゐる。
併し私は気にしない。
私は構はずレッスンをとる。
レッスンをとるために歩きまはる。
歩きまはるために、私はたちどまる。さういふ私を彼女は始めて笑ふのだ。
微笑がいきなり弾道を誘致した。弾道が彼女を海峡に縫ひつけた。
次の瞬間、彼女の組織が解体するだらう。穿たれたホールから海峡が落下奔騰するだらう。その氾濫の中で如何にして自分は、自分自身を収容すべきであらうか。
私は決意した。
銃の安全装置を解す音は田舎駅の改札に似てゐる。
銃を擬して、私はピッタリと彼女をマークした。
すると一匹の蝶がきて静に銃口を覆うた。
(韃靼海峡と蝶)
安西冬衛 【あんざい ふゆえ】
明治31年3月9日~昭和40年8月24日。幻想的なイメージをたたえたロマネスクの精神を基底に、非情で乾いた散文詩を作った。
ネットを通じての友人である木下氏(数学教師・論理学への造詣が深い)とブログ上でたまさかに芸術論について意見交換をする。木下氏は文学については専門家ではなく、数学・論理学の専門家としての立場から発言するのだが、門外漢ゆえに、語る内容は専門性を排した客観的で理解しやすいものだ。
その木下氏が、安西冬衛の詩「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」をとりあげ、詩歌芸術の鑑賞のあり方を「誤読と多様な解釈の違い」という題で書いた。その内容について、僕もブログ上で意見交換をしたが、それを掲載してみたい。少し堅苦しさを感じるかも知れないが、川柳や俳句など短詩系の鑑賞のあり方としての提起ともなっているので、お読みになって、ご意見なども頂きたい。
教育界に<法則化運動>なるものが席巻したとき、仮説実験授業研究会はこれを批判していた。ここで語られている「法則」なるものが、せいぜいが「ことわざ」程度のものに過ぎないのに、仰々しく「法則」などと呼ぶのは間違いではないかというものだった。それは「ことわざ」のように、ある特定の場面で指針として使うなら有効だろうが、使い方を間違えれば失敗するだろう。「法則」というなら、どの場面で使えば有効なのかの「条件」をきちんと解明すべきだろうという批判だった。
この〈法則化運動〉の頂点に向山洋一氏という人がいた。仮説実験授業研究会では、向山氏の詩の授業にも批判の矢を向ける人たちがいた。それは、安西冬衛の「春」という詩を使った授業だった。「春」は短い一行だけの詩で、全文引用になってしまうのだが次のようなものだ。
「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」
難しい漢字は「だったん」と読む。この読み方が後で解釈に重要になってくるのでここに記しておいた。向山氏の授業では、この詩を「話者」の「視点」というものを元にして解釈しようとしている。
向山氏の授業では、この詩を鑑賞するのではなく「分析」するという発想から、「話者」の「視点」に注目して、分析の一歩を踏み出すという技術を教えている。これはこれで一つの解釈だろうと思う。しかし、「分析」の技術を教えるのに、芸術作品を材料にするという発想そのものが、僕には疑問を感じる。
芸術作品は、それが優れた作品であればあるほど、鑑賞の対象にすべきで「分析」の対象にすべきではない。なぜなら、「分析」であるなら、それは客観的に正しい解答がなければならないからだ。誰が考えても、論理的に考えればそこに落ち着くしかないだろうという説得力がなければならないのだ。
ところが、優れた芸術作品というのは、このような単純な理解が出来ず、多様性を持っているからこそ優れているのだ。「視点」を教育するなら、もっと水準の低い作品を使うか、芸術作品でないものを教材にすべきだと思う。
もちろん、水準の低いもので教えてもつまらなくなるので、優れた説明文を見つけてきて、他には解釈が出来ないという唯一の解釈を「分析」するような授業を組み立てるべきだろう。優れた説明文ならそういうものが見つかるはずだ。
この授業の実践例が記録されていて、そこに子供たちの感想が載っている。それを抜き書きしてみると、
「むこう岸にはついていない。しかし「見えなくなった」かどうかはわからない」
「てふてふという生きものと、海が対比されている」
「ひら仮名と漢字が対比されている」
これは、「分析」の過程で出てきた感想なので、鑑賞をした後での感想ではない。だから、鑑賞としてみたら、これはまったく末梢的な部分にこだわっているようにしか見えないが、「分析」であれば仕方がないのかも知れない。しかし、芸術作品としての傑作である安西冬衛の「春」に対して、このような感想しかもてないのは不幸なことではないかと僕は思う。
さらに、この授業では教師の発問として次のようなものも載せられている。
「春という詩を作った人は、幸福だったか、不幸だったか」
不幸だと思う・・・35人
幸福だと思う・・・ 2人
こういう発問を見ると、この詩を芸術作品として高く評価している人は、この詩が冒涜されたような怒りを覚えるだろう。そういう読み方をしてもかまわないが、芸術作品を読むのなら、もう少し感性豊かな読み方をしてくれと言いたくなるのではないだろうか。
僕は、この詩の見事な解釈を、仮説実験授業研究会の牧衷さんから聞いた。もう二〇年くらいも前のことになると思うが、今でもハッキリと覚えている。なお、牧さんは、科学映画の制作の専門家であって文芸評論家ではない。しかし、子供のころから優れた芸術に接する環境にいたので、芸術に対する感性が優れているのだと思う。
牧さんの解釈はこうだった。
まず「韃靼海峡」という言葉だが、これは地理的には「間宮海峡」に当たるところだ。それでは、名前は違っても、場所が同じだからと言って、この詩で「韃靼海峡」を「間宮海峡」に変えてもかまわないだろうか。それは絶対に出来ない。これは、その場所に必然性があるのではなく、「韃靼海峡」という言葉に、この詩の芸術性の本質があるからだ。
「韃靼」という言葉の響きはとても強いものがある。この音の強さがまず第一のポイントで、それが「てふてふ」という音の柔らかさと対比されて、音のコントラストの美しさをこの詩にもたらしている。また「韃靼」という漢字の画の多さが、視覚的な効果を生んでいる。蝶々を漢字で書かずに「てふてふ」と書いたのは、ここに視覚の上での、堅さと柔らかさという対比の効果をもたらすように考えられているのだ。
しかも、この「てふてふ」という言葉は、そのひらがなの形が、いかにも蝶がひらひら舞っているような視覚的効果も生んでいる。この詩は、文字から来る視覚効果と、音声から来る聴覚効果が、相乗的にイメージを深くして、その情景の美しさを感じ取れるように、計算され尽くした詩なのだと受け取ることが出来る。
単純に見たままを表現したのではなく、また心に浮かんだ情景を言葉にしたのでもない。まさに、どのような言葉を配置すれば、どのような効果を生むかということが計算された、見事な芸術作品なのだ。
僕は、牧さんのこの解釈を聞いて、そのあまりの見事さに、この詩を見たときに他の解釈が出来なくなってしまった。芸術作品は多様な解釈を許すものなのに、この作品には計算された芸術として、その計算に気づいた読者には、他の解釈を許さないものがあると思った。
作者の安西冬衛が、このような意図を持って作ったのかどうかは僕は知らない。しかし、慧眼な読者なら、このように読みとってもらえるだろうと意図して、計算してこの作品を創っているのなら、安西冬衛という詩人はすごい人だなと僕は思う。
(中略)
芸術作品としての文章の場合は、正しい読み方というのはおそらくないだろう。それはさまざまな読まれ方をするという、鑑賞されるという点において芸術作品であることを主張しているからだ。論説文は鑑賞の対象ではない。それは理解の対象だ。しかし、鑑賞の対象となる芸術作品は、読み手の感性に従って読まれるのだ。
だから読み手の感性の違いによってそれはさまざまな読まれ方をする。それは芸術作品の宿命のようなものだ。しかし、読まれ方に多様性があるからと言って、それは鑑賞としてどれも同じとは言えない。芸術作品の鑑賞として、その表現の本質を捉えた深い鑑賞と、表面的な部分を捉えた浅い読み方との違いがあるだろう。芸術作品を材料にして、それの読み方を教えるなら、やはり深い読み方を教えて欲しいものだと思う。
(後略)
さらに、この詩がある授業で採りあげられていることについて、木下さんはつぎのように述べた。
「分析」という「鑑賞」ではないことを教えるための材料を教えるのなら、芸術作品を使うべきではないと思う。「分析」は、論理的な文章を対象にして行うべきだ。芸術作品を分析してしまったら、芸術の中の、誰もが賛成する部分を分析するしかなくなる。つまり、芸術としては実につまらないところを読むしかなくなってしまう。論理的な文章なら、本質的に優れた部分を分析することが出来るが、芸術作品ではそれが出来ないのだ。
「視点」を教育するなら、もっと水準の低い芸術作品を使うか、芸術作品でないものを教材にすべきだと思う。もちろん、水準の低いもので教えてもつまらなくなるので、優れた説明文を見つけてきて、他には解釈が出来ないという唯一の解釈を「分析」するような授業を組み立てるべきだろう。優れた説明文ならそういうものが見つかるはずだ。
安西冬の詩と分析に、僕はこのような意見を述べている。
安西冬衛のこの一行詩の記憶はあるが、小学校の教科書に載っていたとは知らなかった。それにしても、僕の感覚からすれば驚異的にことだ。この詩を示された小学生が、詩の味わいを理解できるのだろうか。できるとしたら、僕のこの半世紀余りの人生はいったい何だったろう、とさえ思う。
この詩は、作者の置かれていた境遇や、当時の地理的環境などもあって、ひとつの望郷詩とも読むことができるし、一行詩としてみたまま、漢字とひらがなの絶妙なコントラストとリズムを感じて読んでもいい。
「計算され尽くされた詩」という言葉があるが、自分の実体験からいうと、詩や文芸作品を創るとき、過大な計算が先にあると失敗することが多いのではないかと思う。
計算はいうなれば作為である。作為はおのずと勘のいい人には作為を感じさせてしまうものだ。
僕の場合、「よくできた」と実感できる作品は、ひらめきのなかから生まれることが多い。空想の何かから刺激された感情のひだが、自然に書かせてくれるという感覚。それは、夜中にぽつねんとしているときに生まれることが多いが、朝になって読み返してみると、醜い駄作に変わりはてていて驚くことがある。まるでシンデレラを乗せたきらびやかな馬車が、朝には腐りかけたカボチャに変わっているといった感覚だ。
いずれにしても、よい作品は結果として計算されたかのような姿形をしているのであって、始めから計算して生まれることは少ないと思う。
ただ、自然景観にも計算され尽くしたかの美を感じるように、ある種の必然性が芸術的美しさが形成されてゆくことが多い。たとえば、波に洗われて浸食された岩が、荒々しさと美しさを同居させている姿。あるいは季節の移ろいごとに、あるいは時間の経過ごとに姿をかえてゆくアルプスの景色が、人為では絶対に表現できない雄大で完璧な芸術性を見せてくれるように…。
評論の達人を名乗る人が、芸術作品を「分析」してみせ、自分の高尚(?)な分析結果を押しつけるということは、僕ら文芸の世界でも普段にみかける光景である。しかし、「分析」は、芸術の鑑賞眼を養うためのひとつの手法であって、芸術の大部分は「分析」しきれないという前提をもって、「分析」という技法をこころみる。ということではないだろうか。
アルプスを見たときの美しさを「分析」した結果は、分析者自身のなかに留めればいいことだと思う。他者には他者の感じ方があり、前例を示すことで想像のよろこびを摘みかねないからだ。
川柳など短詩の面白さは、独自の鑑賞にこそある。それを忘れて、他人の鑑賞文を読んでばかりでは自由な鑑賞力は育まれない。
矛盾するようだが、それらを踏まえたうえで、芸術(的作品)を理解するための訓練として「分析」は試みるべきだ。それは、自分自身の鑑賞する力をレベルアップしてゆくことになるからだ。
短詩の芸術性を、具象的作品からしか受け取ることができない人というのが、おなじ文芸仲間には多い、という現実から脱却するためにも、そういう読み方、訓練は必要だ。
それらを前提に内容についての意見交換があった。
木下 僕が、小学校での授業に違和感を感じるのは、その分析が鑑賞とは関係なく、分析のための分析になっているからだろうと思います。鑑賞のための前提としての分析なら、岬さんがおっしゃるように、必要で有効な分析だろうと思います。
岬 そうでしょうね。その部分は、きちんと書かないと誤解されてしまいます。文学や文芸批評で「批評のための批評」他者作品へ評者の自己主張の押しつけが過ぎるのではないかと感じる評論によく出会います。
僕は、批評は作品の深層にあるものを引き出したり、違った光りのあてかたで、立体化してみせたりということであるべきだと思っています。もってまわった難しい解釈してみせることで、原作品を変質してみせたり、書いてないことの付加を与えるというのは、批評者のあり方としては違うのではないかと…。
木下 映画の「いまを生きる」では、詩を分析する手法として、その詩の中に、どれだけの広がりがあるか、多様性があるかなどを数値で表して、グラフ化して比べるというものが出てきていました。これは、分析としては面白いものだと思いましたが、その数値化が画一的で、詩という対象が、あたかも自然の存在物のように観察されるという前提で、間違っていると思いました。
ある詩は、それがどれほど世界の広がりを持っているかよりも、“世界を深く捉えているか”が優れているとも言えるのではないかと思います。それを、とにかく広ければ価値があると考えるのは浅はかな鑑賞ではないかと思います。
岬 同感です。芸術を単純に数値化できるものか。できるとしたら、それは芸術解釈の固定化で傲慢ということではないか、と思います。
木下 計算された芸術というのは、僕は抽象絵画にそれを感じます。抽象絵画は、自然には存在しない美しさを、人間の思考力によって生み出す芸術だと僕は感じています。何かを写せば抽象が表現出来るのではなく、それは抽象であるが故に、人間の頭を通過しなければ表現出来ないような気がするのです。つまり、計算されなければ誕生しない芸術だと感じます。
岬 それについては、実のところよくわからないのです。抽象的な作品を創ったり書いたりしている人が、計算のもとに創作しているかというと、そうでもないのではないかと僕は感じます。しかし、成功作として完成されたものは、結果的に計算され尽くしたような姿をしている。見かけだおしの抽象作品は、計算がどこかで外れているのではないかという、不安定感がある。そんなふうに感じるのです。
木下 昔「コンポジション」と題された絵で、空間を赤と白の二つの色で切り分けた絵を見たことがありました。
そこに僕は、抽象的な「調和」というものの美しさを感じました。それは、まさに空間はそれ以外には分けられないのだという必然性を感じるような感動でした。それ以外の構成(コンポジション)では、この美しさは壊れてしまうという感じを抱きました。
岬 なるほど。しかし抽象作品は、鑑賞側の感性もさることながら、作者との相性もあるのではないでしょうか。
木下 安西冬衛の「春」にも、僕は抽象絵画のような美しさを感じたのです。これは、安西冬衛が、自然の中に発見した美しさを描写したものではなく、自らの抽象によって作り出したのではないだろうか、というような感じです。もしそうであるなら、僕もそのような詩を書いてみたいと思ったものです。
岬 木下さんは、数学の専門家ですが、音楽や文学にも優れた感受性をもちあわせています。逆に、文学をポジションにしていても、「てふてふ」が「蝶々」であっても、「何も感じない」という人もいると思います。
このように、作品から受ける触発は、からなずしも一様ではなく、作品との相性というものもありますから、共鳴しあえる作品と出会ったときに思いきり楽しめばいいのではないでしょうか。
蜂クリック

河童
山荘からつづく森のなかにアルプスから伏流水などを源とする幾筋かの小川がある、その川に孵化した岩魚を放し、川添いに散策できる道を整備している。なるべく手をいれずに、自然の姿のまま歩けるようにしたのだが、昼間でも鬱蒼とした森の中の川辺にいると河童に出会えるのではないかという気分になってくる。
河童といえば、川柳界では川上三太郎師を想う人もいるだろうが、なんと言っても芥川龍之介の晩年の代表作「河童」があげられる。これは、河童の世界を描くことで人間社会を痛烈に批判しており、当時の人びとに問題を提起した。自殺する近年も、俳句や短歌、そして墨絵にも河童を題材にしたことから、命日を「河童忌」と呼ばれるようになった。これは芥川が河童と自らの名前の一字「龍」をめぐる民俗学の伝承に思いをめぐらせていたことにも関係しているらしい。
山荘附近でピンクの花を咲かせているミズという山菜としても知られる植物が豊富だが、これは別名「うわばみ草」と呼ばれている。この“うわばみ”は龍のことで、龍の棲みそうな場所とも言われているが、川沿いに群生する姿がまるで龍のように見えるから、呼ばれるようになったのではないかという説もある。
ところで、晩年の芥川は神経を病み、睡眠薬を常習していた。このきっかけは、秀しげ子という歌人だった。社交的で有名人好みだったしげ子は芥川にまとわりつき、男女の関係になるや、私物化せんかの行動で芥川を悩ませることになった。これを逃れる目的もあって新聞社の海外特派員としてでかけた中国旅行での無理がたたって、病臥につかれた。
そしてついには自死までの道をたどるのだが、そんな自らの姿を自嘲したのが河童に仮託した自ら姿でもあったのではないだろうか。龍の名を負いながらも龍になりきれず、河童という水神に零落した姿。
名作『河童』は、自殺を遂げる5ヵ月前に書き上げられている。
漆黒のなかで
八月のある日、もしや遅い蛍と出会えるかも知れないという期待を抱いて、日がとっぷりと暮れてから、森の中に切り開いた小径を歩いてみた。
わが山荘かせつづく約2000平米ほどの小さな森には三筋ほどの清流があり、清流添いに歩けるように整備した。小さな森だが、熊や猪と出会うこともあるので、夕方は愛犬ハナを連れて歩くことが多いのである。
最近は、日本ではどこに行っても漆黒の闇というものとあまり出会うことがないが、この森にはまぐれもない漆黒がある。漆黒のなかにいると、ひとりの人間としての頼りなさと、人工の明かりで暮らす傲慢さを改めて反省させられる。
ここで突然獣と出会い、対峙したら、なすすべもないかも知れない。闇の中では犬のハナがいやに頼もしくみえてくる。どんどん先に歩いて、木の株の下にある洞穴をのぞいて「ワン!(誰かいるか、というように)」と声を掛けては進んでゆく。
ここでは朽ち木から苔むした岩、大きく崩れだした茸のすべてまで神がかってみえる。昔の人々がさまざまなものを信じてよく祈り、自然に謙虚であったのは、どんな夜もこの漆黒の闇とともに行動していたからだろう。明るかった昼間のあとには必ず漆黒の闇が訪れたから、人々は好むと好まざるとにかかわらず、闇に目をこらし、生とか死を考え、自分を見詰めてきたのだろう。
実際、闇はただの闇にすぎないのだが、その暗さのなかにはさまざまな想いや想像の羽根を広がらせる魔力がある。
そしてそれは文芸についてもいえる。ときにこころのなかに漆黒の闇をもつことで、より深いものが生まれるのではなかろうか、と―。
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いとう岬
三島由紀夫が、大蔵省の役人生活を見切って、二〇代最後の年に書いた小説『仮面の告白』によって一躍その名を知られることになった。その後つづけざまに『愛の渇き』『純白の夜』『青の時代』『禁色』などと書いている。
作品は、幼少期からの自分の内面的な葛藤、異性・同性への愛や感情の揺らぎなどをテキストとして書いているが、初期の作品には後国粋主義的行動に走る筋書きは予見できない。
作品に思想的変化がみられるのは、昭和五一年に朝日新聞の特別通信員として世界一周取材旅行に行ってきてからだ。リオのカーニバルでみたダンサーたちの圧倒的な肉体美や、ギリシャはニーチェ的な「健康への意志」などで強い意識への影響を受けている。朝日新聞に書いた“太陽と肉体”という題のなかの『太陽と鉄』というエッセーに三島の高揚感があらわれている。
そのエッセーで、小説ではどうしても表現しにくいものが自分のなかに堆積していると告白している。この「私」と、言葉として発せられた「私」の間にズレが生じること。言葉の「私」に収まらない「私」とは何かと三島は考える。そして、たどり着いたのが「肉体」であった。
このエッセイのなかで、三島は言葉を不純なもの、肉体を汚染するものとして呪詛している。言葉を扱うのが小説家の宿命であるにもかかわらず、言葉を激しく嫌うことの矛盾。
こうして三島が求めたのは、言葉という媒介(媒体)を介さずに、直接現実と触れることであった。媒介を経ずに直接的に世界とコミュニケーションを行うユートピアを目指すとした、このエッセイは反媒介(メディア)論となっている。
「朝日」へ発表した記事の中で「暗い洞穴から出てはじめて太陽を発見した…生まれてはじめて太陽と握手した…自分の改造ということを考えはじめた」。「ギリシャ人は外面を信じた。過剰な内面性は必ず復讐を受ける。…肉体と知性の均衡だけがあって、『精神』こそキリスト教のいまわしい発明だ」として、その後の三島由紀夫の行動のシンボリックな基礎部分になっていった。
三島の代表作ともいえる『金閣寺』では、美からの呪縛から解放されるために、その美の象徴である金閣寺に火を放つという小説だったが、作中で「世界を変えるのは認識だけだ」とうそぶく友人に、(三島意識の代弁者たる)主人公は「(総括は焼いて消し去るという)行為しかない」と、決意させている。
三島の精神の全体的な流れに通じていえるのは“滅びの美学”だ。武士道も自らの肉体美も、心酔した葉隠れ精神の“ 武士道というは死ぬことと見付けたり”に集約されている。
当時の騒然とした社会状況への嫌悪感もあったのかも知れないが、文学者が、言葉を不純なものとして退けた以上、残される道は言葉を操ることの自分の抹殺でしかなかった。そこに葉隠れ精神と重ねての三島式“滅びの美学”の集成となっていったのではないだろうか。
彼の行動哲学が、文学としての表現にとどまっていれば、美しいものとして語り継がれることになったかも知れないが、自衛隊を蜂起させて国体の転換(クーデター)させようとまで、妄想を膨らませてしまったところに、破綻の必然があった。
たぶん彼も予感していたように、クーデター計画は未遂に終わった。そしてその死により、別の形で一種の三島神話(滅びの美学、あるいは「憂国」の実践者)がひとり歩きを始めた、と僕は考えている。
青年期に、後楽園ジムでトレーニングをしていて、たまたま三島由紀夫と一緒になる機会が何度かあった。そんなこともあり、少しは興味半分で三島由紀夫の本を読んだこともあったが、きどった旧仮名遣いや右翼的行動が僕の肌合いあわず、当時は寺山修司や野坂昭如等の軟派文学に傾倒していた。この歳になって、あらためて三島由紀夫の文学を見直してみようという気持ちになって、稚拙な文を晒させていただいた。
えもえば、青春時代に三島由紀夫、寺山修司、唐十郎、そして青島幸男を遠目ではあったが、生で会ったり見たりできたのは、偶然の悪戯とはいえ幸運で面白い東京時代を過ごせたと思う。
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ひよきち・作
学習能力
娘の自由宿題のノートを見ておりましたら、なんとひよきちのことを書いている箇所を発見。どれどれ一体どんなことを書いているものやらと読んでみますと、10日の手術日のことについて書いておりました。
ここに少し抜き書きしてみますと、
「お母さんも、手術まであと2日、あと1日、あと4時間、1時間と、手術が近付いてくるたびに元気がなくなっているような、そんな気がしました。」
「私が『お母さん、大丈夫だよ!』と言っても、あんまし元気にはなりませんでした。」
「手術も無事に終わって、薬をもらい、家に帰ってきたとき、お母さんの力が思いっきり抜けて、次の日、ずっとおとなしくなっていたのを見て、今度は、私はお母さんのことを心配していました(笑)」
ううぅ。一体どちらが親なのでしょう……。みゆきち。心配かけてごめんね。
しかし、夫と娘は性格がとてもよく似通っておりまして、娘など、手術直前まで「あたしンち」を読んで大笑い。
夫は夫で、病院の廊下の椅子に座り込み、青い顔をしてうなだれる私にこう言うのです。「ママ!こんな時にはな、手の平に“人”という字を書いてそれを飲むんや!」……何か違ふ。
そのうち、夫は何を考えたものか、お茶のペットボトルに貼られていたシールを剥がし、「このシールをおでこに貼るとな手術に対する不安がなくなるねん!」などとわけのわからぬことを口走り、娘と共謀し、いやがる私のおでこにそのシールを貼ろうとするのですね(笑)。その上「早口言葉競争や!!」と言いだし、「ドラキュラを10回言う!」「レギュラーを10回言う!」「リフレクソロジーを10回!」などと私に強要するのです。(そのいずれも、私、言えませぬ。)
あまつさえ夫は「鳥に舌ってあったっけ?」などと呟き、「え?」と即座に頭を抱え込む私に対し、「……実はな、鳥にも舌はあんねんで。」と囁くわけですね。
「………???」と疑惑の目を向ける私に対し、夫と娘は「ほんまやねんで。」と説明し始め、挙げ句の果てにゃ「学校で習てん。」などと念押しするんです。
夫は至極真面目な顔をしまして、「……鳥の口の中にごく小さな骨があって、それは三角形をしとってな。その骨が舌の役割を果たすねん。」と。
………そうなのか(納得)。
でも、その小さな骨の表面に味覚を感知する機能はあるのだろうか。などと私は素朴な疑問を彼らにぶつけたわけなんですね。餌を食べるときに、その骨が邪魔になることはないのか、とも。
そうしましたら、それまで静かに缶コーヒーを飲んでいた夫が突然「ぶはっ!」とコーヒーを吹き出しまして大笑いするんです。
「いや~!また、ママをだましてもうた~!」と。で、パパも娘もげらげら笑っているわけなんですね。むかっ!!
なんで、なんで、私はいつだって彼らに瞞まくらされてばかりなのでしょう。えー…私、学習能力の欠如をば深く自覚した次第であります。どなたか、こんなひよきちに学習能力を。
怒ってないよ
ひよは警戒心の強いタイプではあるけれども、夫に対しては 最早警戒の「け」の字もない。割と何でも信じる方である。夫が「白」と言えば素直にそうか!と思い、一緒になって「白」と信じ込む人間である。
基本的に彼の言うことには間違いがない(笑)と思っているので、分からないことや迷っていること、どう考えていいかわからない時などは必ず彼の意見を求める。
あれは確かまだ新婚の頃のこと、夫と2人で市内のレストランに入った時のことであった。
内装も実にきれいで、また落ち着いた雰囲気で割と気に入っていたお店ではあった。
彼が声を落としてささやくには、「あのな、ここのお店のデザートがめっちゃ凝っとってな、たしかインドで流行っとうめちゃめちゃ美味しいデザートやねんて。器もな、インドからわざわざ取り寄せて、本場と全く一緒のものらしいわ。そんな所にまで気ぃ遣って、やっぱりこのお店おしゃれやな。
デザートの名前、なんやったかな……。『サーラ・ムーディー』ちゃうかったかな。」
この人ってそういうことまで知ってるんだ……。私はそんな彼を見上げ、素直に「すごいなぁ」と思っていた。
……やがて食事は終わりに近づき、いよいよデザートへ。夫がちょっと席を外したとき、そのデザートは運ばれてきた。
「おお! これが噂の「サーラ・ムーディー」なるものか!」私はお店の方に笑顔を見せ、ゆっくりとうなずきながら「サーラ・ムーディー」について話してみた。
「さすがですね。」という思いを込めて。
……その時、お店の人がどういう返答をなさったかは、ここで言わない方がいいであろう。
思い出したくない事というのは、執拗にほじくりかえす必要もないと言う理由からである。
今更思い返したくもないことではあるけれども もうひとつ。
夫がラーメンを食べたいという。近くにお店があるので其処に行きたいという。何でも以前同僚の方と一緒に行ったとき、とても美味しかったそうで、彼が言うにはそこの「ピザラーメン」なるものが「ぴかいち」と言うことだそうだ。
ピザについては贅沢な素材を惜しげもなく使い、お客の好みに合わせてどんな種類のピザでも作ってくれるという。それがラーメンの中にプカプカ浮かんでいるという。ラーメンのスープとピザのハーモニーが抜群だともいう。メニューの中には載っていないものの、常連さんの間ではかなりの人気メニューなのだそうである。
私はちょっと懐疑的になっていた。
「そんなん ほんまにあるのだろうか?」疑わしい目つきをしていた私に、彼はなんのかげりもない眼でほほえみかけ「ほんまなんやで。」と笑った。
「でも、ひよちゃんやったらそんなん食べへんわな」と言って笑っていた。
私も「そうだね。」と言いながら、心の中では「頼んでみたろ。」と秘かに企てていた。ラーメンは豚骨。ピザに関しては「照り焼きチキン」と決めていた。アスパラがついていればもう何も言うことはない。
2人で暖簾をくぐり、お店の中へ。「へい、らっしゃい!」と威勢の良い声。おお、さすがラーメン屋さんだ。やはり こうでなくては。
店員さんがメニューをききに来て下さる。夫は「チャーシュー麺」といい、私は微笑みながら「メニューにはおいていないそうですが」と前置きした上で大層にこやかに、「ピザラーメンをお願いします。」と言った。
………そのあとの、店内の様子をここに書くことはしのびない。余りに。
ああ、何だかこれを書いているうちに 何故だろう。だんだん腹が立ってきた。
腹立ち紛れに もうひとつ。
学期の終わり頃になると 彼は生徒さん達の成績処理に追われる。他の職業もそうだろうと思うけれど、教師というものもなんと過酷な、とも思うのだ。
彼の場合、朝7時から陸上の練習。夜は9時くらいに帰宅。夕食を終えるとすぐに仕事上の書類作成。日曜日は(季節にもよるが)陸上の大会でほとんどつぶれる。仕事を持つことの大変さを、彼の姿を通してしみじみと思う。
さて 2学期の成績処理に追われ始めていた頃。彼が鞄の中から何やら不思議なものを出してきた。……電卓に似ている。彼によるとそれは「テンキー」というものだという。
彼が目を輝かせていうには、これは最新型のパソコンであり、こんなにちっちゃくて電卓のようなものにしか見えないものだけれど、当然のことながらちゃんとスイッチもあるし、ある秘密のボタンを押すとちゃんと画像も出てくるのだという。要するに優れものだというのだ。
そんじょそこらのものではないのだから、みだりに触れてはいけないという。そう言い残して、彼はすたこらさっさとお風呂にはいってしまった。
私はその「テンキー」なるものをじっと見つめる。どう見ても「電卓」にしか見えないのだけど、これが「優れもの」なのか? 触ってみたいけれど 夫の「みだりに触れてはいけない」を思い出し、ただ机上にある その得体の知れな……もとい、不思議なものを見つめていた。
秘密のボタンって何処にあるんだろう。それを押したら何処かがぱかっと開いて、画像が出てくるのだろうか。ああ、触ってみたい。そして「秘密のボタン」なるものを探し出してみたい。いや、でも もし「みだりに触れて」その「優れもの」を壊してしまったらどうする?……私は心のなかで激しく葛藤していた。
やがてその葛藤も最高潮に達した頃、夫が肩にタオルをかけ「ああ、気持ちよかったなぁ。」と笑顔で部屋に戻ってきた。
「今日のお風呂はあれはラベンダーやろ? 俺な、最近ハーブにはちょっとばかりうるさいねん。」と言って、優しくほほえみかける彼に対し、「いいえ、あれはクールミントです。」などと一体誰が冷たく言い得ようか。
「夫よ、早く植物の名前を覚えましょう」と思いつつ、「それは何よりでした。」と答えておく。……そのすぐあとに私は、「ねえ、秘密のボタンって何処にあるの?」と、彼に訊いてみたのである。そして、その直後に訪れた、誠に静かな沈黙の時。
まあ、要するに その2時間半後。「ひよちゃん、ごめん、俺が悪かった。もうおちょくったりしないから。」と、ひたすら謝る夫に対し、ひよは「何も謝る必要なんてないじゃありませんか」とあでやかに微笑み返し、ずるずるずると自分のお布団をば隣の部屋にまで引きずっていき「それではゆっくりとおやすみなさいませ。」と夫に御挨拶申し上げ、ピッシリとかたく襖を閉めたのでありました。はい。
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落合晴水
もう二十四年も昔の話になります。
私の通っていた高校が夏の甲子園大会に出場することが決まり、当時三年生だった私たちも、もしかしたら憧れの甲子園に応援に行くことが出来るかもしれないと胸を躍らせたことがありました。
しかし丁度その時期、私たち三年生は大学受験を控える身であり、県の西部にある市内のホテルにて強化合宿を予定していたのでした。
三日間ほどホテルに缶詰になり、自分の苦手教科を勉強するというものです。その合宿が終わるとすぐに韓国岳、高千穂峰への登山が待っていました。信じ難い話ではありますが、その合宿と登山こそが、私たちの高校の「修学旅行」だったのです(笑)。
昭和五十八年八月。自分たちの仲間が甲子園で闘っているときに、私たち三年生はひたすら高原のホテルで机に向かい、参考書に目を通しておりました。
……正直に申しましょう。
ただ、虚しい気持ちでいっぱいでした。たかだか三日間、ホテルで缶詰になり学んだところで、自分の苦手とする教科が克服できるものでしょうか。
一体何のための合宿なのだろうと思いました。
自分が高校に在籍しているときにその高校が甲子園に出場が決まり(思えば そのことだけでも夢のような話ではあります。確率で言いますと一体どれくらいのものなのでしょう)そしてめでたくも初戦を突破、ついには強豪池田高校との対戦を控えていた時ではありました。
こんな時にこそ、みんなでひとかたまりになり団子になり、甲子園で力一杯声援を送りたい、と思いました。
一緒に応援歌を歌ったり、味方の活躍に喜んで心を弾ませて、……普段は進学担当の先生方から「クラスメートとは言えど志望先が同じ場合には敵だ。蹴落とせ」と言われておりましたが、せめて甲子園にいる時はみんなで肩を組んで、かけがえのない青春の真っ直中にいる「私たち」を確かめたかった。
合宿二日目、朝早くに目が覚め、ふと窓の外に目をやりました時……蜩の声が聴こえて参りました。かなかなかなと淋しい響きです。
その蜩の声に耳を傾けながら、私はまるで風のように流れ去る十七歳の夏を心の奥に 大切にしまい込んだのでした。
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天地わたる
新聞配達所が景品のチケットをくれるという。遊園地入場券、博物館入場券、歌謡ショー等の中から選べという。どれもそう積極的にはなれなかったが島倉千代子に気持ちが動いた。島倉千代子ショーのチケットを二枚もらった。
今年は八月になって連日暑い。六日前の八月十六日、熊谷、多治見で高温日本記録を塗り替えている。前日外出した妻は草臥れたといって消極的だったが、二人で日比谷公会堂で出かけた。
小生が幼児のころ木製のラジオから流れていたのが島倉千代子。いまいくつなのか。いつから紅白歌合戦に出なくなったのかも記憶がない。こんな暑い平日の午後二時、どれくらいの人が集まるのか、そんな興味もあった。
汗だくで日比谷公会堂へ歩いていくと、ぎらぎらした太陽の下、人がいっぱいいた。予想よりずっと多い。ぼくらより上の年齢の方々がほとんどで、たまにいる若い人はその母や祖母の付き添いである。
「入りが悪かったら気の毒」と妻は言ったが、二階もかなり入った。会社の組合大会よりはるかに熱心な人ばかりだ。ぼくらは安心した。幕が上がるとピンクのウエディングドレス風の衣裳を来た女性が立っている。遠いので顔がわからない。「前座の子よ」と妻が言うが、歌いはじめて本人であることがわかった。
島倉千代子は七十歳になり芸能生活五十三年になると挨拶して会場がわいた。ピンクのドレスで歌ったとき声の出が悪く心配したが、別の衣裳になってからは声がのびやかになった。
新聞部数拡張のためのコンサートは経費が切り詰められている。司会者も前座歌手も踊子もいないステージを老いた主役が一人でこなす。一人の歌手と五人の楽団。歌と歌の間をおしゃべりでつなぐ。駅のホームでゲーノージンですかと子どもに問われたことだとか日常を気負いなく語る。妻は一曲一曲一生懸命拍手しはじめた。「拍手して元気をあげるの」と言う。小生もならって拍手する。
一時間を経て着物に着替えて登場したときが真骨頂であった。「この世の花」「からたち日記」「東京だヨおっ母さん」と続いた。「この世の花」は急激に音が上がるところがあってつらそうである。往時ならもっと声が伸びただろうと思うのだが、島倉千代子というブランド力はたいしたもの。声のかすれを味わいに変えてみせるのだ。
老歌手は失ったものを武器にしてまぼろしを宙に見せる。ない声で歌って豊穣を感じさせる。晩年のジャイアント馬場もそうだった。ない力をあるかのように見せた。立ち姿そのものを観客は楽しんだ。たとえば梅の大樹の空洞。それをものともせず木は立っていて花を咲かせ実をつける。表と裏の声がスリリングに交差する歌唱は乾いた艶を帯びていた。いまそこに歌を歌うことのみ楽しむ人がいた。
帰りに「大月みやこのチケットも来そうだね」と言うと妻は「もういいわ」とすげなく応えた。
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天地わたる
雑誌『俳句研究』(富士見書房)が今年の9月号で休刊になるという。小生の 所属する鷹俳句会とは縁が深く、先師藤田湘子は「俳句研究賞」の選考委員をつとめ、現主宰小川軽舟も読者投稿欄の選者をつとめた。俳句界には『俳句研究』が消えるのを惜しむ声が多い。
小生もこの雑誌を定期購読していたが、最近はろくに読んでいなかった。俳句総合誌には『俳句』(角川書店)もあるが、内容は似たり寄ったり。毎月有名俳人の句の羅列が主で、変り映えがしない。
秀句についての鑑賞はそれなりに滋養になるのだが、毎月読むと飽きてきてもっと別の刺激が欲しかった。
別の刺激とは、季語のない五七五作品であり論評である。俳句総合誌の編集者は俳句を「季語のある五七五」ととらえていて、季語のない五七五には無関心である。その癖、俳壇には「無季」という言葉が幽霊のようにまかり通っている。『俳句研究』『俳句』には俳句結社の広告を掲載しているが、そういう結社で無季俳句を標榜しているところを知らない。
俳句と川柳についての区分についていろんなことが言われているが、俳句は季語のある五七五で、川柳は季語のない五七五というのがわかりやすい。
小生は俳句をやりながら8年ほど『旬』に参加して川柳とつきあってきた。石部明さんの主宰している『バックストローク』なども見ていると、先鋭的な柳人たちは新聞川柳レベルのおかしみを厭い、高度のユーモアを求めたり詩的昇華を志していることを実感した。俳句のほうから見て無季俳句に近い領域である。詩的な傾向を求める柳人は「川柳」という言葉に違和感をお持ちであることも知った。
季語のない五七五の領域を積極的に開拓しているのが柳人である。もし俳句総合誌が間口を広げて、「季語のない五七五の可能性」というような企画をやっていたら、読者をもっと獲得できたのではないか。「俳句研究賞」は有季、無季の二本立てで募集していたら世の中は騒然としておもしろくなったのではないか。
俳人は無季の俳句を知らない。俳句は季語のある五七五であるということが俳句総合誌によっても定着している。まだ存続しているとはいえ、『俳句』も「季語のない五七五」等、観念を破って言葉の可能性を探る企画を考えないと読者がじり貧になっていくのではないか。経営のことはともかく、五七五短詩文芸の発展にとってもさびしいことである。
俳句は行き詰まっている。河東碧梧桐、荻原井泉水らが起こした明治末の自由律俳句運動、高柳重信、富沢赤黄男らの昭和三十年代の前衛俳句運動等を経て、いまや俳句は金鉱を掘り尽したかのようにやり尽した観がある。大阪で行なわれた世界陸上における日本の選手たちのように、現在の俳句がめざましい成果を挙げているとは思えない。まあ、参加している選手は一生懸命であり、能力相応の満足感を得ているといった感じであろうか。
小生は『旬』で季語のない五七五を書いてきて草臥れて、今慣れた季語に没頭している。俳句は連れ添った女房みたいなものだ。
テレビをつけていて「水戸黄門」をやっているとつい最後まで見てしまう。最後に印籠が登場する場面を見たいのだ。御老公が印籠を取り出す昂揚感こそ季語を使う感覚。気持ちがよくて安堵する。「季語作家は季語に取り込まれている」と阿部完市氏に言われるとパターン化した印籠を思って半ば頷くのだが、では印籠のない決着をどうするかとなると困ってしまう。
一方季語のない五七五、川柳には違った困難な事情があるはずである。川柳、俳句といった言葉を外して、「季語のある五七五」「季語のない五七五」といったおおまかな括りで考えたら、広がるもの見えるものがあろうかと思う。
小生は季語世界に執着しているのであるが、その概念を広げるためにも季語のない勢力に期待しているのである。
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人形・小林とむぼ
徳永 遊
一年に一度 正月の隣組の初寄会で出会う伊吹さんは国鉄を中途退職して栗東トレセンで働いてきた その時に馬にまつわる珍しい話などよく聞かせてくれた
競馬用馬は肥えると使いものにならないので無理に胴体を何カ所か刃物で傷つけそこに塩をこすりつけ痛がらせては食欲を減退させるのだとか 身動きできない型枠の檻の中に入れておとなしくなるように調教するのだとか 乗馬用馬はオチンチンの玉を抜くのだと そやないとイキリ立って乗せさせますかいなと 馬が足を折ったらすぐ屠殺場行きだとか しかもその殺し方が頭、手足を切り落とし真ん中の胴体だけにして機械で圧縮してしまうのだとか その肉は食用にはならない 何故ならば競馬用に薬漬けされているので食べられない 食べるためには六ヶ月間放牧させてから殺す そしたら毒気が抜けるのだとか そして終わりにはいつも「馬に生れたらかなんな可哀相なもんやで」とこう言うのであった
伊吹さんは半年前にそのトレセンを定年退職して年金もらって家でのんびりするようになりこの二月より屋根の瓦をやり直すのでどうぞ皆さん喧しくなりますけれどよろしく願いますと挨拶していた
その伊吹さんがその一ヶ月後急に亡くなられた 痛風と高血圧の持病があったと聞いた 瓦職人さん達が出入りするので釣りにでも行って来ると家を出られその日に車の中で亡くなられてしまった 奥さんもびっくりして涙も出ないと言う
お侮みに行き顔を拝ませてもらったが死後一日経つというのに頬はうっすらと紅潮し口をポカンと開けて呆気にとられた少年のような死顔だった
今日の昼も瓦職人さん達はせわしく出入りし主のいない屋根の瓦を葺いている
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木佐芳男
橙の花は、金木犀(キンモクセイ)。白い花は、銀木犀。米粒にも満たぬ四つの花びらが寄り添って、ささやかな花をつくる。花がひとかたまりになって、堅い細枝の堅い緑葉を彩る。残暑もすべて消え、季節が確かにひとつの角を曲がるころ、小さな花は、突然自己主張を始める。水たまりや、石ころの場所さえいつしか覚えた小径で、散歩の人は見知らぬ街へ迷い込んだ幼な子のようにとまどい、思わず歩いて来た道をふり返る。木犀の咲き方はそれほど極立つ。だが、例えば、満開の桜の華麗さとは違う。何よりも、その香りの艶やかさと激しさが人を惑わす、と言えばいいすぎだろうか。
その金木犀とあるおばあちゃんの部屋で出会った。部屋へ通された瞬間、「ああ、金木犀ですか」と、思わず口にした。テーブルの上には、橙色の小花の群がった、三十センチほどの小枝が一本挿してあった。
記憶を最も鮮明によみがえらせるのは、色でも形でもない。嗅覚の記憶にこびりついた匂いなのだという学説を、僕は木犀のおかげで信ずるようになった。その上、記憶の再現は、必ず一つの道順をたどることも。
あの日―。香りに叩き起こされた記憶は、まず、無言の映像を描き出す。黒っぽい土の上にびっしりと舞い落ちた白と橙の花。そっとつまんでプラスチックの茶碗に盛る小さなぼくの手。神聖な儀式のように押し黙ってそれを見つめる女の子の前髪。スカートのひだ。「こっちがご飯。これはおかず」。お客さん役の女の子は、山盛りのご飯をこぼさないように、おずおずと手のひらを差し出す。その時、声が聞こえる。「仲良く遊んでるわねェ」。
隣のおばさんのやさしい声は、しかし、ぼくたちの変則的なままごと遊びを、無惨にかき乱す。二人だけの秘密をとがめられたように身をこわばらせ、立ち上がり、その時初めて、花の本当の姿に気づいてしまう。膝の辺りからとてつもなく高い所まで、そして横にもずっと。緑と白と橙の壁がそびえている。いきなり噴き溢れた悲しい思いに衝き動かされ、家の方へ駆け出して行く―。
それまでぼくたちは、拾い集めた宝物が、空から舞ったのだとでも信じていたのだろうか。
故郷のわが家と、表通りの間には、一軒の家がある。その家の露路沿いには、柊(ヒイラギ)の間に、金と銀の木犀を植えた生垣があった。年に一度、香りによって呼び戻される追憶が、事実かどうか確かめようもない。衝撃的な香りが、心のさまよい出しそうな季節の中に充満し、一つの幻想を産み出すだけなのかも知れない。ただ確かなのは、あの香りそのものが、私にとってかけがえのない郷愁であること。すでに遠い過去のものに違いない無邪気さなのに、今でも、いつまでも、心のどこかに残っていると信じさせてくれる。
そして、生きるというのは、一つ一つ、本当のことを知ってしまうことだという悲しい認識をくり返させもする。
数年ぶりで帰郷した日、隣家の生垣が改築工事のためすべて取り払われていたことを、ぼくは知った。
蜂クリック

……それにしても、こんなに編集者が「楽しそう」な冊子ってあるでしょうか。「ちょっと、ずるい~!」とうらやましがっている私です。そのうち「あざみ通信」を復活させますので…(後略)
なんて嬉しいお言葉です。
「楽しい」。そのとおりで、「旬」時代には、半苦痛でやっていた編集を今は楽しんでやっています。
原稿催促とか、つまらない作品をなんとか読めるようにとか、そういう余計な気配りがいらないということでしょうか。また、メンバーがとても協力的というのもいいですね。
ということは置いて、どの文芸も高齢化だとか人材不足だとかを嘆いておられる。
先輩方は、宝石を探すのに相も変わらず古い鉱山にでかけて、採石の山からそれらしきものを拾い出そうとしているのではないでしょうか。
僕は、既成の鉱山より、普通(そうな)人の集まる海辺を、川沿いを散歩します。
そのなかには、いくらでもキラキラと輝くだろう原石が目につきます。
それでじゅうぶんじゃないだろうかなぁ。

こんな花だって、立派にネタになる。

ようやくサクラ咲き始めました
先日、地方新聞社の編集長から、川柳に論というか解説をつけたものを連載しませんか(「して欲しい」といわずに「しませんか」という、この微妙で大きな違い)と投げかけられた。
たしかに川柳は、自分では随分わかりやすいことを書いたつもりでも、わかってもらえないことが多い。
僕たちのあたまに乗せてある葉っぱ
なんて川柳を書いたときも、「何を言っているのか、まったくわからんよ。もっと単刀直入に言えないの」なんて言われてしまう。
「ほら、キツネやタヌキが化かすときに頭に葉っぱをのせるじゃん、人間だって意識するかしないかはベツにして、騙し合っているもんじゃないかな…」
なんて、自句自解していながら哀しくなってくる。
実際の所、注釈で読ませる、というか注釈や引用、解説を読まないと成り立たないというのは、文学の王道ではない。そういう意味で、僕は自分のへたくそな川柳をぽこりんと読み手に投げつけて、「さあ、名作だぞ。しっかり味わって読むんだな。えっ、わからない? そりやあ、あんたが不勉強だからだよ。それに実は、オレもよくわからないんだよな、この作品にははっきりした意味なんてないんだから」なんて態度はとれない。
しかしねー、「ついて来い 今では妻に ついて行く」「ペットより 安い服着て 散歩する」「供稼ぎ 妻の稼ぎは 妻のもの」なんて、サルでもわかるサラ川的チョンの間川柳を書けば、みんな喜んでくれるんだろうけれど、書きたいのはそんなのじゃないんだな。面白がってくれても、心にはのこらない。
それで、せっせと自分なりに、これならどうだ、これなら感じてもらえるだろうと努力をして、なお誤解される。あるいは作者が考えもしなかったような深読みをされる。それがテクストの快楽ではあるけれど…。
しかし、初めからわからないことを前提にしたようなものは書いちゃあいけないし、書けない。そうなると、どうしても川柳だけでは物足りないわけで、付随していっぱい書かざるを得なくなる。
まあ、編集長にはそのへんをつかれてきたわけなんだけれど…。
じやあ、川柳や詩というのは不完全な型式なのか、といえば、僕ははっきりいってメディアとしては不完全だと思う。
なら、ぜんぶ散文にすればいいじゃん、というとこれは甘い。そもそも詩の分野を手がけているのはなぜか、というと、詩でなければうまく表現出来ない感覚とか、内容があるわけだ。それが、こうやって文章と詩や川柳を書き分けようと試みると、どんどん明瞭になってくる。
「今の日本はここがダメだから、こうすべきだな」みたいなことを述べるには、やはり詩は適さない。論文とか散文のほうがいいし、僕も日記などにはエッセーとして書いたりする。
だが、今の日本のダメーな感じとか、雰囲気を描こう、というと、これは詩型が向いている。というか、雰囲気やら空気やらを伝えるなら、エッセイより小説より、詩は向いている、と思う(思いたい)。
思いっきり散文を書いてしまうと、主義主張とか理屈とかは全部そこではき出されていく、そして、なお詩になる部分だけが残る。
油がぜんぶおちたローストビーフみたいなものだ。そのまんなかの、うまみがほっそりとのこった部分が詩や川柳だと思う。
っていいながら、編集長に渡してきた原稿は、川柳ではなくエッセー。文章はダラダラといくらでものばせるからラクなんだなー。さて、採用するんだろうか。

あっ、そういえば県紙のS新聞様、
僕の写真が入選とやらで、
賞をありがとうございました。
お陰さまで、みんなで花見に行けます。
応募したわけでもないのに
賞金くれるなんて、立派な新聞社です。
編集中だった春の号が1週間ほどで完成する予定です。
春の号は、大型新人(さて誰でしょう?)も加わり、一層充実した内容になっています。
官能小説?(オイオイ)が2本掲載されます。
あいかわらず、詩人たちからも力作が寄せられています。お楽しみに!
創刊号表紙
2号表紙見本誌1冊500円(送料とも)です。
大変、生意気ですみませんが、交換誌などでの押しつけはしません。読みたい人にお届けする雑誌をめざしています。
資源や経費のムダを省くため、ご協力ください。
購読ご希望の方は、メール(pros@eagle.ocn.ne.jp)でお申し込みを!
信州は、いまは梅から桃へと開花中!
まもなくサクラ。

休刊となったアサヒグラフ「川柳新子座」の投稿者にある男が居た。かりにTとして置こう。彼は気まぐれで、ぶっきらぼうに句を出していた。
身の黒を暈してゆけば弥陀の道
追いかける前の世からの髪乱し 彼はいまに川柳家として大成するであろうと、囁かれもしたが、然し、僕は彼の作品をちょっと斜めに読み、極力目をそらしていた。しかし、彼の
雨傘の円周率は水になる
東京へ行けばと犬も考える というような句が本につづけて載った頃から、悔しいことに彼の句がひときわ僕の目に飛び込んだ。僕はと言えば「ガン告知リンゴを一つ抱いたまま」なんてチンケなのを出していたのだが、今となってはお笑いぐさだ。
川柳仲間の噂話で、Tはある女性作家と暮らしていると聞いた。同棲である。その相手は、僕も知っている才能ある人だった。
蕾なれど男の部屋の真中に
藤の花鳴呼と仏性宙にあり そのTと、ある川柳の会で一緒になった。僕は思いきって、女性作家とのことに触れてみた。すると、そっけない言葉が返ってきた。
「ああ、あれは雨宿りだよ」
僕は、おもわず唸ってしまった。雨宿りってことは晴れれば出て行く身。それからしばらく後、本当に別れてしまった。
風にめくれる女をなだめすかしてる
お互いに飽きて別れる紙の雪 そして、そのTの川柳がどこからも消えてしまった。
だらだらとではなく、ぽきっとである。しばらくは僕のなかに、Tのしめていた余白が気になっていたが、いつしか忘れた。
離れ見る母の不倫を許すほど
指はレモンをレモンは指を忘れない そして十年もたった頃であろうか、その別れた彼女とある川柳大会の懇親会で隣り合った。
問わず語りに「彼は川柳なぜやめちやったんだろ」と聞いてみると、その人は何の不思議もなく軽々と、
「Tは自分の書きたいこと、書かねばならないことを手帳にギッシリ書いていたのよ。そして、もう全部書いてしまったからこれでおしまい。わたしにも川柳にも飽きたんでしょ。」
あいた口がふさがらないと言うのであろうか、いままで僕の考えていた文芸の概念が根底からガラガラくずれた。「川柳とは何だろう、文芸とは…」と、僕が自己と文芸をむすびつけて真剣に考えてみた最初であった。
大袈裟な決断薄従えて
しんかんとビー玉ひとつダムの底
暗闇の馬は誰よりあたたかい それまで、川柳は湧いてでるもの、もしくは、降って来るもの、単なる意志だけではどうなるものでもないと思っていた。文芸のなかの詩の一部であり、書いて楽しみ、書いて哀しみ、作品と一緒に泣くものであると思っていた。
もちろん今も作品は天与のものであり、自然に産まなければうそだと思いたいのだが、年をとるとそんなことばかり言っていたら間に合わない、創らねばならないときはがむしゃらに苦しみ書く。
それなのにTと来たら、好きなときに、好きなように書き、好きなように捨てる。女も、文芸も、軽々と。
やるせなき五指手袋の中にある
五寸釘五本打たれて生きている
疑いを持たれ張り合いある誘い 僕もようやく今は穏やかになった。しかし川柳を書くより、ゆったりと文章に心をあずけたり、詩を耳に転がせたりしていたいと思うようになった。
しかし今はまた、川柳はいつも天から降って来るものだと思っていたい。川柳をロクに書きもせず、それでも僕の根っこは川柳人でありたいと…、わがままなのはわかっている。しかし、そう思うたびに、彼のことが目裏にちらちらと映ってしかたがない。
夜の蟻この世あの世と出入りして
流し目を送る果てなく落ちながら
雨の屋根ああ人生が濡れている※この文章で紹介した川柳作品は土佐和氏のもので、文章は僕の創作で、T氏と和氏が重なるものではありません。

母はときどき狂います
僕が痛烈に川柳を意識したのは
菜の花の句とであってからだ
その句との対面は衝撃で
しばらく目が宙を泳いだ
それは
「菜の花や母はときどき狂います」
という句だった
その頃
僕ら子どもは都会で暮らし
父とふたり暮らしだった母は
呆けが始まっていた。
今で言う認知症
当然ながら
呆けているということを
母は自覚していなかった
いつもと変わることなく台所にたち
食事の支度をして父に叱られた
「食事はつくらんでいい。俺がやる」
母は哀しそうな顔をしたが
それもしかたがなかった
母が台所に立ったあと
かならず水道が出っ放しだったり
ガスの火を消し忘れられていた
父がそれを点検して回る
それでも母は台所に立ちたがった
そして ある日とうとう
ボヤ騒ぎがおきた
思いあまった父は 母を
特老施設に預けることを決めた
母を特老に預ける前の日
僕たち子どもも帰郷し
家族でひとときの宴をもった
それもひとしきりとなり
僕たちと母は外に出た
家からみえる菜の花畑が
一面の黄色い海だった
寂しいさびしい海だった
「こんどはいつ帰ってくるの」
母の問いかけに答えにつまりながら
「すぐだよ、戻れるかぎり戻るよ」
かるく母の手をにぎってみた
お母さん 許してください
不甲斐ない息子です
声ならない声でつぶやいた
それが聞こえたのかのように
母はにっこりと笑い 僕を見て頷いた
春のつよい風が吹き
一斉に菜の花が揺れた
黄色い黄色い海が荒れた
海に呑み込まれまいと
僕は母とそこに佇んだ
タイトルの句を書いた女性から頼まれた本の編集が終わり、印刷・製本にまわった。
ここを読む人なら、どなたかわかっているかも知れないね。
写真の方だが、とても饒舌で歯切れが良い。しかし、昔はどちらかといえば内気でおとなしく、無口なほうだったという。
それが、人からは気が強いといわれるほどに口が達者になったのは、神戸で自分の喫茶店を開店したことが理由だという。
喫茶店は閑静な官庁街であったが、そのなかに誰でも知っている某有名暴力団の組事務所があって、毎日のようにコーヒーの出前注文があったという。
最初は恐る恐る配達していたが、彼らも組近くのカタギの人々には紳士的で、悪さをするようなことはなかったという。しかし、そこに出入りしているチンピラの女たちの態度はあまり良くなく、言葉遣いも横柄だったという。
女たちは、おとなしく応対しているとますますつけあがり、生意気な態度で、支払いも金を床に投げ出し、拾わせるようなこともあったという。
そんな女たちには、態度で示してあげないとと決心した彼女は、負けまいと、生意気な女には強い態度で接するようにして、口には口で応対してきた。
現在の、関西系オバチャンそのものの話し方は、そこで鍛えたものだという。
まさか、関西オバチャンがみんな丸暴に鍛えられているわけばないわな。


なお、この写真の時代からもう半世紀ほど経っているから、これを手がかりに捜しても絶対に本人はわからないと思うよ。

何かとプレゼントのことを考えるこの時期、やはり家族から貰うことが一番多い。家族からでいいのは、なんと言っても気遣いやお返しをせずにすむことだ。
今年、家族から貰ったプレゼントで印象に残ったものを思い浮かべると、長男から万年筆、靴などブランド品。次男からは酒、そしてさまざまな食料品。娘からは衣料品、身の回りの装飾品。最近はすっかりこのパターンに落ち着いてきた。
それぞれの意図を考えると、親に対するそれぞれの考え方があらわれていて面白い。
長男は“入れ物なりの人ができる”という考えなんだろう。僕はブランド指向というものがまったくない。ダイソー製品であろうとユニクロであろうと、用が足りればいいくちだ。
しかし、それなりのものをもてば所作もそれなりになる、という僕への願いなのだろう。半年筆も靴もネットで調べたら、それぞれン万円もする僕には贅沢なものだった。
最近結婚した次男は先日まで同居していたので、僕の味覚の好みも家計状態もよく知っている。だからひたすら食料品だ。これは、僕より妻がありがたがっている。旅行先から送られてきた酒も、僕が手をつける前に山荘にきたお客さんに出してしまった。
娘は、いつも僕が小汚い格好をしていることが気になっているようだ。買ったばかりの服であろうがお気に入りのものであろうが、それで印刷もするし、山荘に行けばついそのまま作業モードになってしまう。僕にとって着物とは作業着のことなのだ。
娘は「せめて私と歩くときには、もう少しまともな服を着てよ」という。それが、ときどきのプレゼントにあらわれているのだろう。
これらは、まあ嬉しいプレゼントの部類なのだが、あまり歓迎できないプレゼントもある。
最近、僕の主宰する同人誌にとある人に原稿のお願いをしたら、原稿の代わりに味噌漬けがどっさり送られてきた。手紙もついていない。気分がどーんと重くなった。
実は、彼女からは毎年のようにその味噌漬けが送られてくる。そのつど、物に気をつかわずにそのぶんいい原稿を欲しい、と手紙を出しているのだが、これなのだ。
いや、味噌漬けは美味しいものだ。しかし、僕は原稿が欲しいのであってお茶漬けを食べたいのではない。沢山だから、今ではあまりつきあいもない元の文芸仲間に配って歩かなければならない、つまり手間暇かかってしまうのだ。もう、味噌漬けは結構だから原稿を…。
最後に一番嬉しかったプレゼント。
先に、僕が編集して創刊した文芸誌のことを書いたが、これに参加を表明して寄せられた原稿。これは嬉しかった。
原稿を書くということは、その人の生きてきたエキスを紙の上に復元する作業に似ている。それなりの貴重な時間を費やさなければならない。ときには数日を要することだってある。いうなれば人生の貴重な時間や知識を凝縮したエキスが原稿なのだ。
僕は、それによって挫折しそうになった気持ちを励まされ奮い立たされた。
最高のプレゼント、それが『旬感』に寄せられた原稿だった。