巷間知られた寺山修司の代表歌であろう。
ことの成り行きで寺山修司を書かざるを得なくなったが、正直言って荷が重い。
寺山修司は、僕らの思考力を突き抜けた天才詩人である。歌才、詩才、戯曲、演劇活動、そして競馬やボクシングなどのスポーツ評論までこなし、そのどれもが人々のどきもを抜く発想で貫かれていた。いうなれば全身芸術家といっても過言でなかったろう。
僕は寺山修司と会ったことがない。会いたいと何度も願ってはいたのに会いに行かなかった。彼の目の前に立つ前に、寺山の作品をを知りすぎたともいえる。昭和40年代、20そこそこの若造が、寺山に会ってどんな言葉を交わすことができるのだろう、と、それを考えるだけで足がすくんだ。
寺山の書いた「家出のすすめ」は昭和40年代の若者に圧倒的な支持を受けたが、当時の文学少女たちはあまり寺山を支持しなかったような気がする。
その理由は、彼が太っていたことと、覗き見趣味という奇行にあったものであろう。中原中也、立原道造、石川啄木、詩人は痩せて、病弱でなければならなかったのである。
後に風呂の覗き見で警察の世話にもなっている。これについては誤解を恐れずにいうならば理解できてしまう。
彼の好奇心の強さは、一般人の想像をはるかに超えたものであった。単なる裸を見たいということであれば、「天井桟敷」という劇団を主宰していた。なんでもありのような前衛劇を行うその楽屋では劇団員の女優さんたちの裸はいやでも目にはいる。与えられる裸体ではなく、あえて犯罪行為という壁をこえて目にする裸体こそが、彼の芸術的エネルギーにとって必要なのだった、と思う。
寺山修司を語るには生い立ちを追ってみると、彼の思想の基礎が浮かび上がる。調べた範囲で簡単に追ってみよう。
寺山修司は1935年青森県大三沢市に生まれている。ちなみに父・八郎は特高警察の刑事であったが敗戦の年、昭和20年にアルコール中毒のため、セルペス島にて死んでいる。
以来母の手で育てられているが、昭和24年13歳のときに青森県歌舞伎座に引き取られ、楽屋裏の生活が始まっている。歌舞伎座とは名ばかり、旅回りの一座と起居を共にすることもあったという。このころ母は生活の糧を求めて九州の炭坑町へ移り住んでいる。
このあたりまでの生活は、先に紹介した永山則夫に近いものがあったようだ。その後の作品中でも両親への怨念がしばし感じられる。しかし、永山との違いは、自分を失うことがなかった。永山への関心は自分の境遇とも重ねてのことだったのかも知れない。
昭和26年4月に青森高校に入学。学校新聞、そして文学部に参加。雑誌「青蛾」発行した。この青森高校での活動が、後の寺山の人生に大きくかかわっていったのである。
と書き出して、長くなりそうなので彼の詩の一編を紹介してつづきはまたにしたいと思う。ゴメン!
ひとの一生かくれんぼ
あたしはいつも鬼ばかり
赤い夕日の裏町で
もういいかい まあだだよ
百年たったら帰っておいで
百年たてばその意味わかる
かもめは飛びながら歌をおぼえ
人生は遊びながら年老いてゆく
人はだれでも
遊びという名の劇場をもつことができる
どんな鳥だって
想像力より高く飛ぶことは
できないだろう
わかれは必然的だが
出会いは偶然である
野に咲く花の名前は知らない
だけど野に咲く花が好き
人生はたかだか
レースの競馬だ!