寺山は、自分にこのような境遇を強いる、父を憎み母を恨みながらも、その裏側では家族への愛おしき憧れをほの抱いていた。しかし、家族を追い込んだのは戦前の国家権力であったとし、復讐としての犯罪的妄想を文学の中で表現していった。
寺山の、文章や詩、そして自分の主宰するアングラ劇団「天井桟敷」のために書き下ろした戯曲では、母を苛めた以上の激しさをもって「法」「秩序」への挑戦をしていった。それが寺山の国家への復讐であった。
寺山の文学作品、ことに短歌は母を苛める拷問道具としてのエロスと同時に、みずみずしい叙情のわき出す清水口のようなエロスといった、相反する姿をもっている。これが、寺山作品にわれわれを誘い虜にするポイントにもなっているのだが、彼の心の中で絞り出すカタルシスの滴が、さまざまな作品として湧出しているからだと、僕は思う。
寺山の描き出す世界は、人間のひとつの本質をあぶり出している。
子どもたちは、愛にあふれた親たちから生まれたものではなく、世の不条理そのものによって産み落とされたものであり、年頃の娘は、その不条理にふたたびおなじものを追加することを強制されるために行く嫁入りに、ひとかけらの希望があるわけではない。父や母は老いだけが彼ら彼女らを待っており、老人たちには姥捨山しか心よく受け入れてくれるところはない。過去は、きまって現在にしつこく返済を迫ってくる借金取りであり、未来はされに積算されていくその勘定書である。
昭和28年(1953)17歳 全国学生俳句会議を組織。俳句研究社の後援を得て俳句大会を主催。柳田国男、戦時中の新興俳句運動に興味を抱く。俳句雑誌「牧羊神」への参加者100人を超す。高校は皆勤だが欠課275時間。このころより実作の他に論文も書き始める。
昭和29年(1954)18歳 青森歌舞伎座の好意と母の仕送りで早稲田大学に入学。大学へはほとんど行かず、シュペングラーの「西欧の没落」に心酔。夏休みに奈良へ旅行し、橋本多佳子、山口誓子を訪ねる。中城ふみ子の短歌に刺激されて『チェホフ祭』50首を作り、第二回短歌研究新人賞を受賞。冬、ネフローゼを発病する。
昭和30年(1955)19歳 西大久保中央病院に生活保護法にて入院。詩劇グループ「ガラスの髭」を組織し、早稲田大学緑の詩祭の旗揚げ公演の戯曲「失われた領分」を書いた。これが戯曲第一作となる(『櫂詩劇作品集』に収録)。
出演者には山口洋子、河野典生らがいた。同時上演が文学座アトリエの谷川俊太郎『白鳥の湖』であった。 病状悪化し、面会謝絶となる。
昭和31年(1956)20歳 絶対安静続く。スペイン市民戦争文献、ロートレアモン詩書、南北、秋成、カフカなどを読み過ごす。同病室の韓国人に賭博、競馬を習う。マルクス「経済学・哲学ノート」を読む。