※きのうの日記よりつづいています。
alex99さん
msk222さんの返事があるまでに、川柳について、ネットで調べてみたけれど、形式についての説明はあったけれど、私の心に染みいるまでの納得の行く説明は無かった。極めて表面的なものばかり。
もっと大切なのは、俳句と川柳の本質・精神について、説明しているものがなかったこと。
それを msk222さんは、いとも簡単に、私の心情的?疑問を汲み取って、十二分な回答をくれました。う~~ん、これは本物! そう思いました。
それに、これからは、俳句・川柳を、目からウロコの後では、まるっきり違った視点で、眼鏡を新調したような・・・、そんな世界で解釈できるような気がする。
msk222さん
たぶん、俳人や川柳人のなかには、「いや違う、これこれだってある」とさまざまな理屈を持ちだす人もいるでしょう。しかし、強弁すればそれらはおしなべてローカルルールです。その人の周囲では通用しても普遍的には通用しえないルールです。
領土問題を考えてみてください。ひとつの小さな島をめぐって争うとき、みんな自国に有利な解釈で争います。「わが国の大陸棚にあるからわが領土」「境界線のこちら側だからこちらのもの」と…、国境も領土も、もともとは人間の力関係や都合で決められたものですが、とりあえず国際法などで客観的に判断してゆくしかありません。
俳句も川柳も、自分の都合だけで主張していても、ダメです。客観者が誰でも認められる説明こそ必要だと思います。
alex99さんは、短詩文芸者たちにとっての解答を先回りして理解くださったと、僕は思います。
bjkeikoさん
第一生命が募集している「サラリーマン川柳」は ネットでも本でも楽しめます。世相や時代の流れを反映して面白いですね。シティリビングが始めた「OL川柳」も本音爆裂で痛快!
みんな思ってることは同じだなって笑いながら 気分転換できます。
(msk222さんが)俳人が俳句とおもって川柳もどきを書いたり、川柳人が俳句もどきの句を書いたりして、いっそうわかりにくくなっているのが実情です。
といいますが、専門の方までがそうとなると 素人にはますます難しいですね。
msk222
小学生にレベルに俳句を作らせても川柳をつくらせても、出てくるものはただの575の言葉だけです。この延長で、俳句作者も川柳作者もうろ覚えのルールで無意識に作っている人が多いのです。
野原で三角ベースをしている子どもたちが、野球と答えたりソフトボールと答えたりということと同じなのです。しかし、プロ野球をみてソフトボールだとは言わないように、あるレベルになれば区分けが可能だと思います。
bjkeikoさん
川柳には季語があっても無くてもよいと聞きましたが、季語がないのはすべて川柳だと言えるのでしょうか?
msk222
季語は俳句の約束事です。では、川柳は使わないかというと使います。ただ、季語として使うのではありません。
日本語の多くはほとんど季語で分類されているのではないかと思うほどたくさんありますから、それを避けていたら川柳など書けなくなってしまいます。月や桜はもちろん、山下達郎という名前でさえ季語ですから…。
bjkeikoさん
>山下達郎という名前でさえ季語……
ひゃ~ びっくり!クリスマス・イブで冬でしょうか?
高気圧ガールというのもあるし。。。。謎!
しかも 8文字ですが・・・・・・・
季語は年々増殖しているのですね。
msk222さん
そして、俳句でも無季俳句というように、季節を意識しない作品もありますから、季語がないことが即、川柳とはいいません。
入れものが無い両手で受ける 放哉
足のうら洗へば白くなる 放哉
分け入っても分け入っても青い山 山頭火
これらは季語がなくても俳句です。
On My Ownさん
>そうすると、俳句は情景や自然現象を扱い、川柳は人間社会の下世話な観察を扱う、という乱暴な解釈でもいいんですか? 俳句は哲学、川柳は文学というような印象を持ってましたが。
alex99さん
msk222さんの上記の説明では
>俳句の主体は「モノ」を写生し、作者の感慨を込めて表現します。
川柳は、俳諧本来の「こっけいや穿ち」をひきづっています。
「人情の機微」を表現することから発展してきたもの、人の「コト」が主体だと思ってください。
(そのことから)俳句は、自然(モノ)を詠い、川柳は、人間の心象風景(コト)を詠う・・・と言う風に、まとめて了解しましたが。
この私の了解がもし、正しければ、川柳において、必ずしも『下世話』が要件でも無いと思います。
例えば、上記の寺山修司の『かくれんぼ 三つ数えて 冬を知る』という句ですが、この句は、下世話な言葉づかいでもなく、その句の内容は、川柳的に解釈すれば、深い精神性の世界を描いていると思います。
もし、この句を『ああ、知らない間に、冬の気配が忍び寄ってきた』という『季節感』としてだけ受け止めれば、『俳句』になるのではないでしょうか?
msk222さん
そうですね。俳句は、余韻を大事にしますから、読んだらあとは屁理屈をいわずに句の余韻を楽しみなさい、という姿勢なのですね。
だから、俳人が川柳を読むと、お喋りが過ぎると感じる人が多いと思います。
たー0227さん
私は『川柳』を『爆笑俳句』『ニヤリ俳句』だと思っていたんです。
ときどき面白みがない「川柳」を見かけて疑問でしたが、そういうわけだったんですね。サラリーマン川柳は大好きです。
alex99さん
日本人のほとんどが川柳を誤解していたのではないでしょうか?
時実新子という女性川柳作家が、性をも大胆に題材にしたすごい表現・感覚の情念の世界を詠った川柳を作っているということは知っています。
今NHKの教育テレビで川柳の講座を持っていますが。
短歌界の俵万智さんのような存在なのでしょうか?
彼女の川柳は、まだほとんど知らないんですが、滑稽味が中心の川柳では無いようです。
msk222さん
実を言うと、僕は時実新子師に直接指導を受けていた時代もあります。いまでは離れていますが、その川柳思想には今も私淑している部分が多々あります。ただこのことを言うと「だからあいつは…」という、狭い了見で色づけしたがる人達がいて残念です。
彼女は正しく現代の川柳を文学的地位にひきあげた最大の功労者です。もちろん彼女への批判や罵声もありますが、それは川柳以外のことでしょう。
彼女の好き嫌いは別にして、今はそこから派生したり、文芸としてかかわった人達が各地で影響し合って、新しい飛躍をめざしています。
僕の今思い出せる時実新子の若いときの作品のなかから、alex99さんの好みそそうな句を紹介しましょう。
愛咬やはるかはるかに桜散る
凶暴な愛が欲しいの煙突よ
わたしは遊女よ昼の灯をともし
月の夜は撓(しな)いつづける竹の橋
西洋の男に抱かれ脱げる靴
もちろん、このようなイロっぽい句ばかりでなく
いちめんの椿の中に椿落つ
何だ何だと大きな月が昇りくる
というような、男女ごととはまったく違う句もたくさんあります。何万句もあるものですからあげ切れませんが…。
あえて付け加えると、現在では時実新子の時代から新しい局面に入りつつあると言ってもいいでしょう。
alex99さん
川柳・俳句と関係無く、今日のNHK教育の短歌の番組を何げなく観ていたのですが(NHK教育は面白い!)、『字余り』について、『確信犯的なクロスオーバー』についてと同じ様なコメントがありましたので。
『形式破りなのは承知での勢いのある字余りは、かえって迫力・思い入れが分かり、効果がある』
ぼんやり聴いていたので、私趣味なりの『意訳』ですが・・・。
でも、なるほど! と思いました。
形式にこだわり、形式の中に安住することより、あえて形式を無視する勢い・思いは、わかる人にはわかるし、異様の魅力になる・・・と。
msk222さん
そのとおりですね。
ただ、技術の未熟から形式を無視しているのはただの怠慢でしかありません。
ここでは、これ以外ないというときに、破調(異形)は許されるのです。
川柳人には、馬鹿正直にどんな場合でも575以外は認めないという堅物もなかにはおりますが、それも勉強不足ゆえの堅物と申していいでしょう。
olive2004さん
作った本人が川柳だといえば川柳、俳句といえば俳句でしょう。
alex99さん
とも言えるのですが、自然の写生か? または人情の機微か? と言うポイントで俳句か川柳かに分ける客観的な評価はあるでしょうね。
msk222さん
はい、今や俳句と川柳は作者名でしか区別がつかないと主張する人も少なくありません。
しかし、この主張はどこか自己弁護的であり、大事なところから「逃げている」いい方だと僕は思います。
川柳人がつくっても俳句。俳人がつくっても川柳ということもあります。ただ、川柳的解釈も俳句的解釈もできる句というものがありますから、これらは作者の所属するジャンルで分けるしかないと思いますが、それでもいままで語ってきたように考えてみれば作品の分類はしやすいと思います。しかし、自分の句を、俳人が川柳だとか川柳人が俳句だとは言いたくないと思いますが…。
olive2004さん
明日は上野市で芭蕉生誕360年 世界俳諧フュージョンてのがあります、アメリカとかイギリスの俳句協会から来た人が連句を行うそうですが、英語の俳句ってのがあるくらいですからね。
alex99さん
以下は私の独断と偏見ですが、ご容赦下さい。
『古池や 蛙とびこむ 水の音』
これを様々人が様々に英訳していますが、私から言わせれば、全くダメです。
とても俳句になんかなっていません。
そもそも俳句とは、日本語でなければ成り立たない文芸です。日本語は膠着語という語族に入っています。
朝鮮語・トルコ語・フィンランド語・エストニア語・マジャール語(ハンガリー語)などが、この語族だと思いますが。
しかも、単語がカバーする意味があいまいで、同音以後が多い。こういう言語でないと俳句は不可能だと思います。
ただし、日本の俳句の英訳は意味がありませんが、はじめから英語で作る俳句はそれなりのスタイルを成立させることが出来るかも知れません。あくまで可能性の問題ですが。
できれば、msk222さんのご意見もいただきたいと思います。
msk222さん
僕は、言語学については弱いので、そちら側からは正確には答えられません。
感覚的にいうと、俳句の味わいは日本という風土と言葉があってこそのものだと思います。
英語俳句が作られていますが、日本から外にでた場合は、俳句もどきになると僕は思います。たとえば熱帯地方で、冬の季語の俳句をつくっても実感がない。アメリカで豆腐に甘みをつけてソフトクリームのように食べているのをテレビで見たことがありますが、あれは豆腐でも豆腐料理とはいいがたい。
俳句の優れた味わいどころは、言葉を放ったあとの空間です。英語で日本語と同じ空気を生みだせるかどうか、僕には疑問です。
川柳の場合は、基本的には意味(コト)の伝達ですから英語でも作りやすいような気がします。
alex99さん
そうですよね。私も上で英語のHAIKUは『全然ダメ』と頭から否定しています。
英語だと、明晰すぎるので、意味の輪郭がクッキリとしすぎて、余韻が残らない、意味の幅出しが全然出来ない、ファジーな味を出せない。
それに何よりも、言葉のつながり方が違いますよね。
明日の日記で、いろんな『古池や』の英訳を例示してみます。
この問答も、一応ここで一区切りにしますが必要に応じてまた書かせてもらいます。
alex99さんと語り合えたのはとっても有益でした。自分の中でもどかしく揺れていた「川柳・俳句」の姿もはっきり表明できました。これからは迷うことなく語ってゆきます。