寺山修司は芸術活動をキャッチボール「対話」としてとらえていた。寺山は屈折した天才少年のまま大人になったといってもいいだろう。少年たちがプロ野球に夢をもち憧れたように、寺山もまた野球の話題にしばしば熱中することがあった。
誰もが対等に話し合える(場)の芽生えが、文芸のつくりごとの短歌であり、戯曲であり、演劇でもあった。
しかし、そこに確実にあったのは寺山修司独特の独創であり、焦土と化した日本の復興過程で、人々の飢えと恐慌のさなかにあったとき、寺山や唐十郎などのおとな少年たちは自分たちの創意にうち興じながら、懸命に独自の創作世界を作りあげていった。
物質的な飢えすら、彼らはたくましい生のエネルギ一に変え得たのではないだろうか。
ひとつの時代がもたらした飢えた荒野をいち早く耕しはじめたのは、実は大人たちではなく少年のこころであったのである。
寺山の時代のまんが雑誌として、少年たちに夢を与えつづけた少年倶楽部には、その後の「少年マガジソ」や「少年サソデー」に見られるようなある種の暗さを伴った作品はなかった。飢えた荒野で、少年たちは活字に飢え、幼年倶楽部の一字一句を見逃がすまいとして隅から隅まで注意深く読んだのだろう。
重くつらい病気をもった人が、ときとして健康な人よりも明かるいという事実にしばしば出会うことがあるが、当時の飢えた少年たちもそれと良く似た状態にあったのではないだろうか。あるいはあの時代の少年たちの瞳には、現代社会の少年たちより希望という小さな光をしっかり捉えていたのではないだろうか。
この時代が、決っして避けられない必然の下に暗い様相を帯びているとは思えなかった。悲劇的ではあったが、悲劇そのものではなかった。だから「ニーチェの時代には悲劇的なものを求めることが英雄的であったのに対し、すでに悲劇的なものが予め与えられている現代では、幸福を求める行為以外にニーチェの説いた感情の高い密度を保証するものはない」(ボッシュ・われら不条理の子)とさえ思ったのである。(「戦後詩」より)
物質的に飢えた少年の心は飢えを満たす夢に満ちていたのだ。だから寺山修司はこの時代に対しても、ひどく楽天的である。楽天的であるということは、この黄昏の時代を無視しているということでは決っしてなく、少年時代に形成したあくなき自我への信仰とそのたくましさが、この世を見下しながら自在に「行為」を産んでいるということなのである。
「家出のすすめ」などもその典型で、単純に言ってみれば「家」や「国家」といった血族へ繋がるものへの離縁状であり、寺山修司の作品のなかに良く「母殺し」や「父殺し」の話が出てくるのがうなずかれるのである。そして脱出したら再び元の所へ帰るな!とは寺山修司十年来の呪文であった。
自分の生き方は創意工夫することにより、いかようにも「多彩な幸福」を求めることができるのだという寺山の持論は、彼の驚くべき多彩な才能をとおして、当時の本当の少年たちつまり僕たちの人生論ともなっていったのである。
しかし、その寺山修司が47歳で早世し、その後の狂乱ともいえる、経済至上主義の一本に奔流のように社会が流れ込んでゆくにしたがって、寺山のとなえた「多彩な幸福」は、しばし効率の悪いものとして社会の流れからはずされていったのである。
なんとなく締まりの悪い文章で、寺山修司考のしめくくりとします