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文芸を親しみ、交流するいとう岬のサロンです
by msk333
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文芸森樹
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てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。
この詩が向山洋一さんの授業で採りあげられていることについて、秀さんはつぎのように述べている。
>「分析」という「鑑賞」ではないことを教えるための材料を教えるのなら、芸術作品を使うべきではないと思う。「分析」は、論理的な文章を対象にして行うべきだ。芸術作品を分析してしまったら、芸術の中の、誰もが賛成する部分を分析するしかなくなる。つまり、芸術としては実につまらないところを読むしかなくなってしまう。論理的な文章なら、本質的に優れた部分を分析することが出来るが、芸術作品ではそれが出来ないのだ。仮説実験授業研究会が向山氏の詩の授業を批判した気持ちは、僕には実によく分かる。
安西冬衛のこの一行詩の記憶はあるが、小学校の教科書に載っていたとは知らなかった。
僕の感覚からすれば驚異的にことだ。この詩を示された小学生が、この詩の味わいを理解できるとしたら、僕のこの半世紀余りの人生はいったい何だったろう、とさえ思う。
この詩は、作者の置かれていた境遇や、当時の地理的環境などもあって、ひとつの望郷詩とも読むことができるし、一行詩としてみたまま、漢字とひらがなの絶妙なコントラストとリズムを感じて読んでもいい。
計算され尽くされた詩という言葉があるが、自分の実感からいうと、詩や文芸作品を創りだすときに、計算が先にあると失敗することが多いのではないかと思う。
計算はいうなれば作為である。作為はおのずと勘のいい相手に作為と感じさせてしまうものだ。
僕は「よしできた!」と実感できる作品は、ひらめきのなかから生まれることが多い。
そのとき何ものかから刺激をうけた感情のひだが、自然に書かせてくれるという感覚だ。僕は夜中にぽつねんとしているときに生まれることが多いが、朝になって読み返してみると、醜い駄作に変わっていて驚くことがある。まるでシンデレラを乗せたきらびやかな馬車が、朝には腐りかけたカボチャに変わっているような感覚だ。
いずれにしても、よい作品は結果として計算されたかのような姿形をしているのであって、始めから計算して生まれることは少ないと思う。
ただ、自然景観にもよく計算されたかのような美しさを感じるように、ある種の必然性のもとに形成されていることが多い。
例えば波に洗われて浸食された岩が、荒々しさと美しさを同居させている姿、あるいは季節の移ろいごとに、あるいは時間の経過ごとに姿を変えてゆくアルプスの景色が、計算では表現しきれないであろう完璧な芸術性を感じさせてくれる。
芸術作品を「分析」してみせ、自分の高尚(?)な分析結果を押しつけるということは、僕ら文芸の世界でも多く行われているが、「分析」は、芸術の鑑賞眼を養うためのひとつの手法であって、芸術の大部分は「分析」できないものという前提で、「分析」という遊びをこころみる、ということでならあってもいいのかも知れない。しかし、アルプスを前にしたときの美しさを「分析」してみたところで、それは自分のなかに留めればいいことで、他者に押しつけるものではない。他者には他者の感じ方があるのだから。
もっともらしい「分析」は、その鑑賞者が作品の評価を固定化してしまうという弊害を意識しなければならない。
したがって、芸術作品の安易な計量的分析は、僕も秀さんと同様に否定的だ。
そうしたうえで、芸術(的作品)を理解するための訓練としての「分析」を試みるということは、多用していいと思う。というより鑑賞者レベルでは日常的に意識すべきだと思う。
矛盾するようだが、芸術性を、見たままの具象からしか受け取ることができない人というのが、おなじ文芸をしている仲間にも多いという現実を実感しているからだ。
いや、僕らの地方にいたっては、そのレベルの人が大多数を占めているように思う。
秀さんは、このようにも指摘している。
>「視点」を教育するなら、もっと水準の低い芸術作品を使うか、芸術作品でないものを教材にすべきだと思う。もちろん、水準の低いもので教えてもつまらなくなるので、優れた説明文を見つけてきて、他には解釈が出来ないという唯一の解釈を「分析」するような授業を組み立てるべきだろう。優れた説明文ならそういうものが見つかるはずだ。
このような訓練を経て、すぐれた作家や鑑賞者が育ってゆくのだから、作者あるいは鑑賞者双方にとって切磋琢磨としての「分析」は必要なのだろう、と思う。
頭から、鑑賞のあり方を否定してしまったら、育つ芽も育たなくなることも考えられるからだ。
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