この世とは冷たい雨の降るところ
新家完司の諦観
にんげんも笑っているとかわいいが
公園で首を吊ってはいけません
葬式で出会う従兄弟の名を知らず
いもうとのような夜店の金魚たち
封筒に入れると貰い易い金
酒という字が夕暮れにポッと点く
わたくしがすっぽり入るゴミ袋
しあわせな人は静にしてほしい
ほんとうの別れ手を振ることもなく
ひとりでも遊べる海に石投げて
川柳界のゴジラ・新家完司という人
い と う 岬
「旬」のクローズアップに新家完司さん(以下敬称略)を採りあげたいととはずっと思っていた。2月末には準備にかかったのだが相変わらず僕の不手際が重なり、おもわぬ難産となってしまった。
新家完司という川柳作家をちょっと甘くみていたのかも知れない。これだけ面白い作品、実績をもつ人であるのだから、どなたに依頼するにしてもすぐに書けるであろうとタカを括っていた。
ご本人に、誰に書いて貰いたいか候補をあげていただいた。候補にあがったのは、それぞれ川柳人としても書き手としても名の通った方々ばかりだった。
ところが、そのつぎつぎに辞退されてしまったのだ。それぞれに、やんごとなき事情はあるのだが、その事情ばかりではなかったかと思う。書こうと思えば一晩か二晩あれば書ける人たちばかりと思っていたので、ちょっと慌ててしまった。 例えば、締め切り間際でこんな返事だった。
「すみません、書けませんので今回はパスさせて下さい。きのう200字10枚書きましたが自分でボツにしました。今日、あらためて200字12枚書きましたが、とてものせてもらえる出来ではありません。今回はお許しください。」
ご本人の誠意は十分に感じるし、何より、ほとんど時間も与えずに、突然に「書け」と突きつける方の僕が悪いのは当然だが、新家完司以外の人だったらどうだろう。若干もの足りない仕上がりかとおもっても、そのまま提出していただけたのではないだろうか。
新家完司という題材がそれだけ書き手にプレッシャーを与える作家であることを思い知った。
しかし、ものおじしない無手勝流が『旬』のもちあじなのだ、それに予定を変更できない台所事情もある。
新家完司という題材
このクローズアップ企画については僕にも多少の計略があった。完司川柳を考えるとき頭をかすめる人の存在、耳姫キッチン情野千里である。彼女は、もう一〇年も前になるが『川柳展望』で「川柳のスーダラ現象」として新家完司の川柳を批評した。この因縁の一〇年を経て、今どのように評価するのか興味があり、この対決はぜひ実現したかった。
情野宅に電話を入れたら、海外公演にでかけていて、四月一五日まで帰国できないというではないか。う~ん遅れる、『旬』の読者にまた叱られてしまう。しかし、手抜きはしたくない、ということで書いてもらえるあてもなく帰国を待つことにした。もう一人は先にクローズアップでも紹介した『綱わたり』の小林こうこに依頼した。文字通り綱わたりである。
四月一六日、恐る恐る情野宅に電話した。居た、企画を話すと案ずるより易し、ふたつ返事で引き受けてくれた。さすがきっぷの耳姫である。ということで、この後につづくお二人の完司評をお楽しみにされたい。
軽く深く面白く
僕はもちろん新家完司作品に好感をもっている。だからこそ採り上げた。
ちなみに僕の友人知人10数人に、新家完司の川柳の好き嫌いをそれとなく聞いてみた。モニターにしては乏しいサンプルだが、一〇人のうち五人は強く支持する。二人くらいは首を傾げる。のこりの三人「面白いものもあるしつまらないのもある」という、まあ一般的な反応だろう。
いや、これはかなりあてずっぽうな分析だから、まともに受け止めてもらっても困るのだが、あながち遠からずと思っている。一〇〇パーセント支持される川柳などがあったとしたらニセモノだ。 しかし、作品へのこの好感度は川柳作家のなかでもぬきんでているほうではないだろうか。僕は完司作品のぜんぶに目を通しているわけではないが、少なくとも句集などに精選されている作品は高く評価している。読んで面白い、面白いから疲れない。作品としても深い。
たとえば川柳で、あやすいこともパズル的手法で書けば、それなりに深そうな作品らしくなる。しかし、やさしく書きながら深みを出すのはとてもむずかしい。地が表にでてしまうからだ。僕自身の作品もそうありたいと思っていながらなかなか実現できずにいる。
川柳作品のエコールは多様であっていいと思うが、僕は新家完司の川柳のような、〈軽く深い〉味わいをもつ作品が大きな流れとなってくれることを、期待している。
ただし、誤解されると困るが、完司川柳のクローン作品はいらない。 たとえば作風的にも完司とかかわりの深い『川柳展望』でいえば、金築雨学、笹田かなえ、原井典子などの個性、久場征子や伊藤益男などの渋いが円熟した軽みなどの傾向が、もっともっと伸びてきて欲しいと思う。僕もこんな川柳を書けないものかと、習作してみることがよくあるのだ。
四冊の句集
新家完司は、なんと四冊の自句集を出している。『平成元年』『平成五年』『平成十年』『平成十五年』の四冊である。五年に一冊発行というなかなか壮大な企画である。
テレビドラマ「北の国から」ではないが、年代を追って、生き方、思想、生活のあり様が、五年ごとに区切った一冊一冊のなかに照らしだされている。新家完司の作品の軌跡ともいえる歩みとなっていて、それぞれ味わいある本になっている。ほとんど無作為的ではあるが、本のなかから一部抽出してみよう。
平成元年
ありがたいことにあしたの米がある
以下同文の隅っこで頭を下げる
うたた寝の耳に君が代らしきもの
紙きれに表彰状と書いてある
空腹の象より深く祷れるか
さくらめーるに悲しいことが書いてある
しあわせになれそうもないおんなのこ
立たされた廊下に雨が降っている
目が合うと好きになるので目を伏せる
夕焼けのどこかで誰か泣いている
平成五年
反省会の反省会をしなければ
火葬場も春でつつじが咲いている
ともだちの名前の上の故という字
仔犬ほど可愛くはない他人の子
一票を深い谷間に投げ入れる
ともだちの女狂いがうつりそう
鍵いっぱい持ってあんたも淋しいか
遊んだら治る病気によく罹る
化粧した妻がなかなか帰らない
被告にはいつも同情してしまう
平成十年
愛をください なければ酒をもう一本
赤ちゃんはまだ幸せでよく笑う
岬から先はあの世でいつも明るい
水族館の魚くらしにこまらない
しあわせな人は静かにしてほしい
なんの祟りか老人になってゆく
どこへ連れていこうか泣いている女
隣町より近いところにあるあの世
屍を収めるまではただの箱
平成十五年
連結器の上は危ないおもしろい
スリッパペタペタ これも僕の音
サムライかカボチャか叩いたらわかる
てのひらで掬えぬものが流れてゆく
グーチョキパーどれより強い銭を出す
にんげんの顔が見えない窓ばかり
しあわせな蛇にんげんにまだ遭わず
にんげんの口を覗けば暗い穴
我が祖国礼儀正しい箸の国
どのあたりまでがこの世か沖の月
選ばれた作品ということもあろうが、作品に安定感があって、読み心地がいい。
川柳界の松井秀喜とでも言おうか、いかつい顔に似合わずやさしく繊細な新家完司も昨年還暦を迎えたという。にんげんの弱さ哀しさ可笑しさ馬鹿らしさ、恋情不条理を、平明で深く深くとどん欲に表現してきたが、これからどんな題材をどう調理してゆこうとしているのだろう。
先年亡くなった中尾藻助さんを尊敬して、 〝藻助の軽み〟 を求めてきた(と思われる)新家完司である。
生も死も軽い約束だと思う 中尾藻助
万華鏡この世は夢を見るところ 〃
遠くから白い渚を見るように 〃
石段に腰を下ろしているいのち 〃
中尾藻助そして完司
とりわけ、生と死、そして酒を詠むことの多い作者ではあるが、中尾藻助の求めた 〝軽み〟 と新家完司の辿っている 〝軽み〟 の粘度は必ずしも同じモノではないと思う。
万年青年然だった完司も、これからはいやでも老境に向かう。 どんな路線を歩もうとしているのか、何を句材にするのか、藻助そして完司の拓いた道はやがて大きな街道になろう。 僕も無関心でいられない。
これまで、やや生臭い句材を好んで掬い書いてきたようにも思える作者だが、枯淡な句境の作品をモノしてゆくのだろうか、とことん死や恋、そして酒にこだわり、艶のある句境をもとめてゆくのだろうか、どのようにして完司調といわれる川柳の塊を残してゆこうとしているのか、まことに興味津々である。
最後になったが、大先輩に敬称抜きで大それた言い回しをしてきた無礼をお許しいただきたい。
新家完司再見
〝ハヤトウリの君〟へ
情 野 千 里
完司さんに最後にお会いしたのは、いったいいつのことだったろう? 思い出すのも困難なほどご本人や、完司作品に接する機会を失ってから久しい。
『旬』のシリーズ企画〝クローズアップ〟に、完司さんをとりあげようと考えたとき、いとう岬さんの脳裏に浮かんだのが〝スーダラ節現象〟なる造語で完司作品を批評した私のことだったとは…。
岬さんの論争好き、論客歓迎体質には早くから気が付いてはいたものの、団塊の世代の一員でありながらこの私、大学紛争とは無縁の田舎の女子短大あがり。理論武装のノウハウも知らず、ときどき台所に降りてくる〝ことばの神さん〟の言うとおり原稿用紙に言葉を書きつづってきたにすぎない。
ときに過激、ときに辛辣であまりに直截な表現が私を、好んで論争しかけるタイプの人間に見せているのかも知れないが、本然の姿とは遠い。ただ、いったん口から発した言葉について自己責任を問われることは、イラクで人質となった日本人のそれよりはるかに順当と考えている。
ずい分時を経てからの再考察ではあるが、完司作品を語るにあたって、まずはこの〝スーダラ節現象〟という言葉が何故出てきたか、また、その意味するところの真実を洗い直してみようと思う。
〝スーダラ節現象〟という言葉の初出は、なんと10年の昔にさかのぼる。『川柳展望』№76の前号会員作品批評のなかで、完司作品ともう一人別の会員のものを交互に並べ、よく似た傾向の作品が展望誌上に(異常に)増えてきていることを会員に示したのだ。
フッと思い付いたことや日常生活の断片をすいすいと書き止めた(ように見える)作品を、それまでも完司は確信的に発表してきた。新家完司川柳集(二)『平成五年』のあとがきに彼は「平明で深い」句を理想とすると書き、次いで「平明」は平凡に、「深く」は難解に傾きがちだと、陥りがちな陥穽の存在に気を配っている。意図的に抽象的な言葉や、隠喩を排した自らの作品が、平凡のまま終っているかどうかは読者の判断に委ねる、と大人・完司らしい謙虚さであるが、もし〝平凡〟に見えるならそれはあんたの側に問題があるんだよと続く完司の声がきこえてくるようでもある。
完司ほどの自負や覚悟があるならよし。しかし、平明は良い川柳の第一条件とばかりにすらすらスイスイと思いつくまま気の向くままを書き並べてすましている。完司作品そっくりの、加えて言えば〝平凡〟におっこちかけた完司作品とそっくりの川柳を発表しつづける作家(?)たち。
「…作品のスタイルは元来多彩であるべきで、同じ柄の服を着て兄弟姉妹、一族郎等が行進してきたら、これはファッションじゃなくてファシズムというものではないか…」スイスイとは身につかぬ作句姿勢のオリジナリティ。それは言いたいがための〝スーダラ節現象〟発言だったのだ。
その時の完司作品は〈わたしの仕事地図には残らない〉〈夜おそく帰ると食べるものがない〉〈人妻とうわばみ草を採りに行く〉〈新聞は読むが信用していない〉以上六句。今回の四十句のなかには入っていない。
戦場は遙かに蟹が茹で上がる
この世とは冷たい雨の降るところ
たまご割る音ほどもなくひとりの死
ともだちという財産も失せやすし
完司は〝理詰め〟ではない。理不尽で不条理な世の仕組み、他人の仕打ち。生まれるという神秘、死ぬという不思議。世間智に磨きぬかれた白く強い歯で現実を噛みくだき川柳という形で吐き出す。
道理、理智に貫かれた完司川柳が観念句、常識句に堕ちていないのは、〝理〟に寄ると決めた心が悲哀に満ちているからである。〝情〟とは人を愛(いと)し、愛(かな)しと感じ、自然に深く心を打たれるところに存在する。
完司の悲しみは〝情〟に傾きたがる自らの性向をねじ伏せつき離してもなお、一行を成す言葉のすき間からわき上がってくる。
いもうとのような夜店の金魚たち
酒という字が夕暮れにポッと点く
横丁を曲がれば住所不定なり
目の端にいつか家族を捨てる駅
美しい骨になれよと雪が降る
川柳の社会性をいうとき、サラリーマン川柳やスポーツ新聞の記者がブチ上げる見出し川柳を思いうかべてしまう。社会性と大衆性を
ごっちゃにしている世間の泥に、すでに片足をとられてしまっているのだ。
完司は興味本位や娯楽性に走らず、大衆と呼ばれる人間たちの細部に焦点をあてる。古代、上代から不変の人間ドラマを愛(かな)しみの眼で見透す。ああ、これが完司作品の社会性なのだと納得するのだ。
にんげんも笑っているとかわいいが
はした金につながれ空を見ていない
目の前の人とかなしいほどの距離
ところで、ハヤトウリをご存知だろうか?瓜の一種で、表面のデコボコかげんや色白なところが、完司さんに似ている。スライスして塩もみするとオツな味だが、鋭い棘を隠している。ウッカリしていると痛い目にあうのだ。
ひとり遊びしながら、ともだちの来訪を願い、ひとり言をつぶやきながら応じてくれる誰かを求める。にんげん嫌いでにんげん好きの完司作品は、読み進むうちに髪までしっとりと濡れ、指先からは血がにじむ。
霧が出て街は水族館になる
大好きな句である。
新家完司さんのこと
小 林 こうこ
完ちゃんの名前を知ったのは「川柳展望」(時実新子主宰のころ)に入会してまもなくで、百三十余の会員作品の中で、いつ読んでも平明で深い句、そしてユーモアとペーソスを持ち合わせた句に惹かれてファンになった。数年後、穴道湖畔のホテルで川柳展望の全国大会があり、その時はじめて完ちゃんに逢った。思っていたよりがっしりした体つきで、すっとぼけたような大らかさと、ペーソスを秘めた優しい、とても良い人という感じが印象深い。
岬さんから句評をということで、思ったことを書いてみたい。
完ちゃんの句には「酒」と「死」がけっこう出てくる。完ちゃんの昔の句に「酒で死んだ親父を想い酒を飲む」というのがあり、完ちゃんの根底に潜んでいるものがあるのかも知れない。
酒という字が夕暮れにポッと点く
つまずいたところがちょうど酒屋さん
お酒好きの人の姿が目に浮かぶ。
明日死ぬと思っていない人ばかり
いつ死ぬかわからないから先にめし
葬式で出会う従兄弟の名を知らず
たまご割る音ほどもなくひとりの死
ほんとうの別れ手を振ることもなく
みんな死ぬ そのことだけをなぐさめに
美しい骨になれよと雪が降る
人がいっぱい死んでそれからさくら咲く
「人がいっぱい死んで…」の句…、ここ半年の間に仲人をした青年、嫁の父親、夫の親友が急死、兄が癌で亡くなり、私は満開の桜を見ながら、この句を諳じていた。こんなに「死」を肩の力を抜いて深く句にする力量はたいしたものだ。
他には、
にんげんが脱いだ下着が気味悪い
そのまゝおくと生きているような、着ていた人の生き様が表れて、確かに気味悪い。夫婦仲が悪くなった時、きたない物をつまむように下着を持つというけど、その気持ちまで思い至らせる句。
おしりぺんぺんにっぽんじんはくいすぎだ
飽食と贅沢と、そのうえ食物を粗末にしたり、あげくはダイエットなんて、今に罰が当たる。「おしりぺんぺん」が効いている。
傷のあるリンゴのほうが良い匂い
人間苦労人の方が味があるもんネ!!
五億円ほど入いる金庫を持っている
最初にこの句を読んだ時、完ちゃんらしいと笑っちゃいました。家にも娘が抽選会であてた三億ほど入いる金庫があります。
誰ひとり気づいてくれぬひとりごと
あるある。ひとりごとがめっきり増えてきたことにハッとすることがあったりして…でも気づかれぬ方がいいのかもネ!!
完ちゃんの句は、読んでニヤリする句とホロリする句が直に心に入ってくる。誰でもこれは自分でも書けそうだと思うけど、いざ作ると、なかなか模倣を越せない。でもちょっとはみだした完ちゃんもみたいので、たまには冒険もしてほしい。
これは余談になるけど、島根の展望大会で役目で段上にずっといた時、何百人もいる中の一人の男性からものすごいオーラを感じた。オーラは人間的な魅力を放っていた。その人は中尾藻介さん(故人)だった。たしか「家」という題に、
友達の家だと思ったことがない 藻介
という句があって、句とともにあのオーラが今だ忘れられない。完ちゃんの句も、ちょっと中尾藻介さんに通じるものがある。
完ちゃんもオーラを発する素質のある人だと思う。長生きをして、おもしろい句をいっぱいみせてください。期待しています。