意を決して言った。
「ええ」
「じゃ七時頃、この同じバーで。いい?」
「いいわ」
「きっと来るね?」
「ええ、きっと」そしてその時は―。
裕美は笹木の手をそっと振り切って歩み去った。夫よりも、少女時代に淡い思いを寄せあった笹木が、この瞬間ずっとずっと近いような気がしてならなかった。
金曜日の夕方、裕美は子供を実家に送り出した後、ていねいにシャワーを浴びた。彼女自身、老いた母親を見舞いがてら実家に泊ると夫に言っておいた。
シャワーの栓を止めたとたん、電話のベルが鳴った。
笹木のキャンセルの電話かと不安が過ぎった。雑誌の編集長などしていると、いつ臨時の仕事が入らないともかぎらない。
タオルを巻きつけて慌てて出てみると、相手は雪絵だった。
「その声だと、どうやら失望させたらしいわね」と雪絵が言った。
「ねえ、あの後どうだったの? やっちゃった?」
「やっちゃった」だなんて言い方は、自分たちの場合にはそぐわないと裕美は眉をひそめた。
「まさか。そんなんじゃないのよ、わたしたち」
「だって、いい線いってたみたいだったわよ、裕美ったらベタベタしちゃってさ。何よ、いいじゃないの、あたしに隠すことないでしょ?」
「雪絵ったら…」と裕美はあきれた声を出した。
「いくら嘘ついてもダメ。あの夜の裕美、まさに触れなば落ちんの風情だったわよ」
私が? 自分では毅然としていたつもりだった。触れなば落ちんの風情だったのは、晶子ではなかったか。
けれども親友の眼に、自分がそんなふうにしどけなく映っていたのだと思うと、裕美の思いが揺れ始める。
「ほんとうにあなたの誤解よ。何もないのよ、私たち。なんだったら、今夜自分の眼で確かめたら?」
思わずそう言ってしまって、裕美はすぐにばかみたいと後悔した。
「今夜って? 今夜笹木さんに逢うの?」
「ちょっとね。ご飯食べるだけよ」
シャワーの後で着るつもりだったとっておきの絹の下着のことを考えながら裕美は言った。
「いらっしゃいよ、雪絵、会社六時には終るんでしょう? 一緒にごちそうしてもらいましょうよ。彼、相当グルメみたいだから」
内心、雪絵が断るだろうと恩っていた。断ってくれるように、と祈りこめた。
「そうね…、どうしようかな」と、雪絵がちょっと考える声で言った。
「美味しいものの誘惑には勝てないわね、いくわ」
裕美の気持ちの中は失望で真暗になった。しかし、今更前言を引っこめるわけにはいかない。
「ほんとうにいいの? あたしなんかがお邪魔して?」と雪絵が念を押した。
雪絵をこの時ほど憎らしいと思ったことはなかった。しかしその感情を殺して
「邪魔だと恩ったら、最初から誘わないわよ。あなた、気を廻し過ぎよ」
裕美はやけ気味に言いつのった。
「実はむしろほっとしているの。二人だけで食事するの、なんだか気が重かったのよね」 心にもないことをつけ加えた。
それから後の会話は上の空だった。事の意外な成りゆきにほとんど茫然自失の体で、裕美は受話器を置いた。
少し気分が落ちつくと、雪絵に対する怒りと、自分のあいまいさに猛烈に腹が立ってきた。いずれにしろ、雪絵が参加することになった顛末を知らせておいた方がいいだろうと、笹木の出版社に電話を入れたが、彼は出かけていて、今日はおそらくそのまま戻らないだろうとのことだった。
触れなば落ちんの風情だったなどと雪絵に言われて、ついあの夜の晶子の様子と自分を重ねてしまったのだ。仕方がない。笹木には後でよく説明しよう。この次ということもあるし。もしかしたら雪絵が気をきかせて食事の後消えてくれるかもしれないし。
しかし雪絵は消えなかった。最後まで裕美と一緒だった。食事の後消えたのは、笹木の方だった。
彼はホテルのグリルでの食事が済むと、ひどく芝居じみた仕種で腕時計を眺め、
「僕ちょっとこの後、仕事が残っているもので」と言って腰を浮かした。とりつくしまもない感じだった。
そもそも、ホテルのバーに早目に行って雪絵のことをあらかじめ伝えようとしたのだが、その雪絵が先に来てしまい、笹木は最後だった。
雪絵の顔をみた瞬間の笹木の複雑な表情を、裕美は一生忘れないだろうと思った。驚き、失望、怒りで彼の顔が少し上気したようになった。それでも自分を繕い直すとなんとか表面的にその場をやり過ごしていたが、食事中ずっと彼は、まるで見えない壁の向う側に引っこんでしまったように、ひややかで遠かった。不機嫌な退屈した態度を隠そうともしなかった。
裕美は自分がとりかえしのつかない失策を犯してしまったことを感じ、口の中で舌が喉の方へとめくれ返るような思いに耐えていた。雪絵だけが陽気だった。
「あら、どうしてお帰りになるの? 金曜の夜なのよ」と雪絵が熱心に笹木を引き止めた。
「うん、そうだよ。しかしね、金曜日の夜にはね、一部性双生児みたいな女たちを相手に時間をつぶすより、もう少しましな過ごし方があると思ってさ…」不快さを隠そうともせずそれだけ言うと、笹木は伝票をかすめ取るようにつかんで歩き去った。
「ねえ、今の聞いた?」と雪絵が裕美の顔をのぞきこんだ。「一卵性双生児だって? どういう意味かしら」
「多分こういう意味よ」と、裕美は死んだような気分で答えた。
「決定的な夜に女友だちなんか連れてくるばかな女のことよ」それと、のこのこついてくるでしゃばり女のことだ。
「えっ? 決定的な夜だったの? いやだあ、そう言ってくれればいいのに。あたしぶちこわしちゃったの?」さすがに雪絵も顔色を変える。
「ううん、いいの。もし何かをぶちこわしちゃったんだとしたら、あなたじゃなくて、わたしだもの。あなたを誘ったの、わたしでしょ?」
「あたしもバカね。察してあげたら良かったのに。あなたがあんまり軽くいうから、今夜のデイトに乗り気じゃないのかな、と思ったのよ。むしろ人助けのつもりで進んでお邪魔虫したの。ごめんね」
「もういいの」裕美はまだ残っているワイングラスを親友にむかって上げた。
「おかげで過ちを犯さずに済んだわ」
「後悔してない?」
してないと首を振ったが、裕美は一種やりきれないような喪失感に打ちのめされていた。何かがあって後悔するのならまだいい。何もなくて、それこそ何も起らなくて、不意に断ち切られてしまった関係を後悔するくらい、切ないことはない。でも、わたしには子供たちもいるし、夫もいるんだわ、と裕美は自分に何度も言いきかせた。
けれども、子供たちがいて夫がいるのにもかかわらず、置き去りにされ、打ち棄てられたみたいに淋しくてならなかった。
「ほんとに、大丈夫?」雪絵の心配気な顔があった。
「うん、大丈夫」裕美はそう言って残っているワインを一気にあおった。
*
こんな結論にもってゆくつもりはなかったのに、筆が逃げてしまった。
もっと違う展開を期待して読んでくれていた(だろう)に、裏切ってゴメン。
どうも、もうひとつ臆病な性格がこんな場面でもでてしまう。