休刊となったアサヒグラフ「川柳新子座」の投稿者にある男が居た。かりにTとして置こう。彼は気まぐれで、ぶっきらぼうに句を出していた。
身の黒を暈してゆけば弥陀の道
追いかける前の世からの髪乱し
彼はいまに川柳家として大成するであろうと、囁かれもしたが、然し、僕は彼の作品をちょっと斜めに読み、極力目をそらしていた。しかし、彼の
雨傘の円周率は水になる
東京へ行けばと犬も考える
というような句が本につづけて載った頃から、悔しいことに彼の句がひときわ僕の目に飛び込んだ。僕はと言えば「ガン告知リンゴを一つ抱いたまま」なんてチンケなのを出していたのだが、今となってはお笑いぐさだ。
川柳仲間の噂話で、Tはある女性作家と暮らしていると聞いた。同棲である。その相手は、僕も知っている才能ある人だった。
蕾なれど男の部屋の真中に
藤の花鳴呼と仏性宙にあり
そのTと、ある川柳の会で一緒になった。僕は思いきって、女性作家とのことに触れてみた。すると、そっけない言葉が返ってきた。
「ああ、あれは雨宿りだよ」
僕は、おもわず唸ってしまった。雨宿りってことは晴れれば出て行く身。それからしばらく後、本当に別れてしまった。
風にめくれる女をなだめすかしてる
お互いに飽きて別れる紙の雪
そして、そのTの川柳がどこからも消えてしまった。
だらだらとではなく、ぽきっとである。しばらくは僕のなかに、Tのしめていた余白が気になっていたが、いつしか忘れた。
離れ見る母の不倫を許すほど
指はレモンをレモンは指を忘れない
そして十年もたった頃であろうか、その別れた彼女とある川柳大会の懇親会で隣り合った。
問わず語りに「彼は川柳なぜやめちやったんだろ」と聞いてみると、その人は何の不思議もなく軽々と、
「Tは自分の書きたいこと、書かねばならないことを手帳にギッシリ書いていたのよ。そして、もう全部書いてしまったからこれでおしまい。わたしにも川柳にも飽きたんでしょ。」
あいた口がふさがらないと言うのであろうか、いままで僕の考えていた文芸の概念が根底からガラガラくずれた。「川柳とは何だろう、文芸とは…」と、僕が自己と文芸をむすびつけて真剣に考えてみた最初であった。
大袈裟な決断薄従えて
しんかんとビー玉ひとつダムの底
暗闇の馬は誰よりあたたかい
それまで、川柳は湧いてでるもの、もしくは、降って来るもの、単なる意志だけではどうなるものでもないと思っていた。文芸のなかの詩の一部であり、書いて楽しみ、書いて哀しみ、作品と一緒に泣くものであると思っていた。
もちろん今も作品は天与のものであり、自然に産まなければうそだと思いたいのだが、年をとるとそんなことばかり言っていたら間に合わない、創らねばならないときはがむしゃらに苦しみ書く。
それなのにTと来たら、好きなときに、好きなように書き、好きなように捨てる。女も、文芸も、軽々と。
やるせなき五指手袋の中にある
五寸釘五本打たれて生きている
疑いを持たれ張り合いある誘い
僕もようやく今は穏やかになった。しかし川柳を書くより、ゆったりと文章に心をあずけたり、詩を耳に転がせたりしていたいと思うようになった。
しかし今はまた、川柳はいつも天から降って来るものだと思っていたい。川柳をロクに書きもせず、それでも僕の根っこは川柳人でありたいと…、わがままなのはわかっている。しかし、そう思うたびに、彼のことが目裏にちらちらと映ってしかたがない。
夜の蟻この世あの世と出入りして
流し目を送る果てなく落ちながら
雨の屋根ああ人生が濡れている
※この文章で紹介した川柳作品は土佐和氏のもので、文章は僕の創作で、T氏と和氏が重なるものではありません。