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文芸を親しみ、交流するいとう岬のサロンです
by msk333
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文芸森樹
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天地わたる
雑誌『俳句研究』(富士見書房)が今年の9月号で休刊になるという。小生の 所属する鷹俳句会とは縁が深く、先師藤田湘子は「俳句研究賞」の選考委員をつとめ、現主宰小川軽舟も読者投稿欄の選者をつとめた。俳句界には『俳句研究』が消えるのを惜しむ声が多い。
小生もこの雑誌を定期購読していたが、最近はろくに読んでいなかった。俳句総合誌には『俳句』(角川書店)もあるが、内容は似たり寄ったり。毎月有名俳人の句の羅列が主で、変り映えがしない。
秀句についての鑑賞はそれなりに滋養になるのだが、毎月読むと飽きてきてもっと別の刺激が欲しかった。
別の刺激とは、季語のない五七五作品であり論評である。俳句総合誌の編集者は俳句を「季語のある五七五」ととらえていて、季語のない五七五には無関心である。その癖、俳壇には「無季」という言葉が幽霊のようにまかり通っている。『俳句研究』『俳句』には俳句結社の広告を掲載しているが、そういう結社で無季俳句を標榜しているところを知らない。
俳句と川柳についての区分についていろんなことが言われているが、俳句は季語のある五七五で、川柳は季語のない五七五というのがわかりやすい。
小生は俳句をやりながら8年ほど『旬』に参加して川柳とつきあってきた。石部明さんの主宰している『バックストローク』なども見ていると、先鋭的な柳人たちは新聞川柳レベルのおかしみを厭い、高度のユーモアを求めたり詩的昇華を志していることを実感した。俳句のほうから見て無季俳句に近い領域である。詩的な傾向を求める柳人は「川柳」という言葉に違和感をお持ちであることも知った。
季語のない五七五の領域を積極的に開拓しているのが柳人である。もし俳句総合誌が間口を広げて、「季語のない五七五の可能性」というような企画をやっていたら、読者をもっと獲得できたのではないか。「俳句研究賞」は有季、無季の二本立てで募集していたら世の中は騒然としておもしろくなったのではないか。
俳人は無季の俳句を知らない。俳句は季語のある五七五であるということが俳句総合誌によっても定着している。まだ存続しているとはいえ、『俳句』も「季語のない五七五」等、観念を破って言葉の可能性を探る企画を考えないと読者がじり貧になっていくのではないか。経営のことはともかく、五七五短詩文芸の発展にとってもさびしいことである。
俳句は行き詰まっている。河東碧梧桐、荻原井泉水らが起こした明治末の自由律俳句運動、高柳重信、富沢赤黄男らの昭和三十年代の前衛俳句運動等を経て、いまや俳句は金鉱を掘り尽したかのようにやり尽した観がある。大阪で行なわれた世界陸上における日本の選手たちのように、現在の俳句がめざましい成果を挙げているとは思えない。まあ、参加している選手は一生懸命であり、能力相応の満足感を得ているといった感じであろうか。
小生は『旬』で季語のない五七五を書いてきて草臥れて、今慣れた季語に没頭している。俳句は連れ添った女房みたいなものだ。
テレビをつけていて「水戸黄門」をやっているとつい最後まで見てしまう。最後に印籠が登場する場面を見たいのだ。御老公が印籠を取り出す昂揚感こそ季語を使う感覚。気持ちがよくて安堵する。「季語作家は季語に取り込まれている」と阿部完市氏に言われるとパターン化した印籠を思って半ば頷くのだが、では印籠のない決着をどうするかとなると困ってしまう。
一方季語のない五七五、川柳には違った困難な事情があるはずである。川柳、俳句といった言葉を外して、「季語のある五七五」「季語のない五七五」といったおおまかな括りで考えたら、広がるもの見えるものがあろうかと思う。
小生は季語世界に執着しているのであるが、その概念を広げるためにも季語のない勢力に期待しているのである。
蜂クリック
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