てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。
安西冬衛
木の椅子に膝を組んで銃口を鼻にする。蒼い脳髄で嗅ぐ硝煙の匂が、私を内部立体の世界へ導いた。
私を乗せた俥は公園に沿うて坂を登っていった。曇天の下でメリイゴオランドが将に出発しようとして、馬は革製の耳を揃へてゐた。しかし私を乗せた俥は、この時もう曇天を堕して坂を登り尽してゐた。
私は遊離された進行に同意する。
彼女は目を眠ってゐた。壁に垂れた地図に横顔をあてて。彼女の肩を辷つて青褪め韃靼海峡が肩掛のやうに流れてゐた。
流れる彼女の眸子はいつも榲つてゐる。
併し私は気にしない。
私は構はずレッスンをとる。
レッスンをとるために歩きまはる。
歩きまはるために、私はたちどまる。さういふ私を彼女は始めて笑ふのだ。
微笑がいきなり弾道を誘致した。弾道が彼女を海峡に縫ひつけた。
次の瞬間、彼女の組織が解体するだらう。穿たれたホールから海峡が落下奔騰するだらう。その氾濫の中で如何にして自分は、自分自身を収容すべきであらうか。
私は決意した。
銃の安全装置を解す音は田舎駅の改札に似てゐる。
銃を擬して、私はピッタリと彼女をマークした。
すると一匹の蝶がきて静に銃口を覆うた。
(韃靼海峡と蝶)
安西冬衛 【あんざい ふゆえ】
明治31年3月9日~昭和40年8月24日。幻想的なイメージをたたえたロマネスクの精神を基底に、非情で乾いた散文詩を作った。
ネットを通じての友人である木下氏(数学教師・論理学への造詣が深い)とブログ上でたまさかに芸術論について意見交換をする。木下氏は文学については専門家ではなく、数学・論理学の専門家としての立場から発言するのだが、門外漢ゆえに、語る内容は専門性を排した客観的で理解しやすいものだ。
その木下氏が、安西冬衛の詩「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」をとりあげ、詩歌芸術の鑑賞のあり方を「誤読と多様な解釈の違い」という題で書いた。その内容について、僕もブログ上で意見交換をしたが、それを掲載してみたい。少し堅苦しさを感じるかも知れないが、川柳や俳句など短詩系の鑑賞のあり方としての提起ともなっているので、お読みになって、ご意見なども頂きたい。
教育界に<法則化運動>なるものが席巻したとき、仮説実験授業研究会はこれを批判していた。ここで語られている「法則」なるものが、せいぜいが「ことわざ」程度のものに過ぎないのに、仰々しく「法則」などと呼ぶのは間違いではないかというものだった。それは「ことわざ」のように、ある特定の場面で指針として使うなら有効だろうが、使い方を間違えれば失敗するだろう。「法則」というなら、どの場面で使えば有効なのかの「条件」をきちんと解明すべきだろうという批判だった。
この〈法則化運動〉の頂点に向山洋一氏という人がいた。仮説実験授業研究会では、向山氏の詩の授業にも批判の矢を向ける人たちがいた。それは、安西冬衛の「春」という詩を使った授業だった。「春」は短い一行だけの詩で、全文引用になってしまうのだが次のようなものだ。
「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」
難しい漢字は「だったん」と読む。この読み方が後で解釈に重要になってくるのでここに記しておいた。向山氏の授業では、この詩を「話者」の「視点」というものを元にして解釈しようとしている。
向山氏の授業では、この詩を鑑賞するのではなく「分析」するという発想から、「話者」の「視点」に注目して、分析の一歩を踏み出すという技術を教えている。これはこれで一つの解釈だろうと思う。しかし、「分析」の技術を教えるのに、芸術作品を材料にするという発想そのものが、僕には疑問を感じる。
芸術作品は、それが優れた作品であればあるほど、鑑賞の対象にすべきで「分析」の対象にすべきではない。なぜなら、「分析」であるなら、それは客観的に正しい解答がなければならないからだ。誰が考えても、論理的に考えればそこに落ち着くしかないだろうという説得力がなければならないのだ。
ところが、優れた芸術作品というのは、このような単純な理解が出来ず、多様性を持っているからこそ優れているのだ。「視点」を教育するなら、もっと水準の低い作品を使うか、芸術作品でないものを教材にすべきだと思う。
もちろん、水準の低いもので教えてもつまらなくなるので、優れた説明文を見つけてきて、他には解釈が出来ないという唯一の解釈を「分析」するような授業を組み立てるべきだろう。優れた説明文ならそういうものが見つかるはずだ。
この授業の実践例が記録されていて、そこに子供たちの感想が載っている。それを抜き書きしてみると、
「むこう岸にはついていない。しかし「見えなくなった」かどうかはわからない」
「てふてふという生きものと、海が対比されている」
「ひら仮名と漢字が対比されている」
これは、「分析」の過程で出てきた感想なので、鑑賞をした後での感想ではない。だから、鑑賞としてみたら、これはまったく末梢的な部分にこだわっているようにしか見えないが、「分析」であれば仕方がないのかも知れない。しかし、芸術作品としての傑作である安西冬衛の「春」に対して、このような感想しかもてないのは不幸なことではないかと僕は思う。
さらに、この授業では教師の発問として次のようなものも載せられている。
「春という詩を作った人は、幸福だったか、不幸だったか」
不幸だと思う・・・35人
幸福だと思う・・・ 2人
こういう発問を見ると、この詩を芸術作品として高く評価している人は、この詩が冒涜されたような怒りを覚えるだろう。そういう読み方をしてもかまわないが、芸術作品を読むのなら、もう少し感性豊かな読み方をしてくれと言いたくなるのではないだろうか。
僕は、この詩の見事な解釈を、仮説実験授業研究会の牧衷さんから聞いた。もう二〇年くらいも前のことになると思うが、今でもハッキリと覚えている。なお、牧さんは、科学映画の制作の専門家であって文芸評論家ではない。しかし、子供のころから優れた芸術に接する環境にいたので、芸術に対する感性が優れているのだと思う。
牧さんの解釈はこうだった。
まず「韃靼海峡」という言葉だが、これは地理的には「間宮海峡」に当たるところだ。それでは、名前は違っても、場所が同じだからと言って、この詩で「韃靼海峡」を「間宮海峡」に変えてもかまわないだろうか。それは絶対に出来ない。これは、その場所に必然性があるのではなく、「韃靼海峡」という言葉に、この詩の芸術性の本質があるからだ。
「韃靼」という言葉の響きはとても強いものがある。この音の強さがまず第一のポイントで、それが「てふてふ」という音の柔らかさと対比されて、音のコントラストの美しさをこの詩にもたらしている。また「韃靼」という漢字の画の多さが、視覚的な効果を生んでいる。蝶々を漢字で書かずに「てふてふ」と書いたのは、ここに視覚の上での、堅さと柔らかさという対比の効果をもたらすように考えられているのだ。
しかも、この「てふてふ」という言葉は、そのひらがなの形が、いかにも蝶がひらひら舞っているような視覚的効果も生んでいる。この詩は、文字から来る視覚効果と、音声から来る聴覚効果が、相乗的にイメージを深くして、その情景の美しさを感じ取れるように、計算され尽くした詩なのだと受け取ることが出来る。
単純に見たままを表現したのではなく、また心に浮かんだ情景を言葉にしたのでもない。まさに、どのような言葉を配置すれば、どのような効果を生むかということが計算された、見事な芸術作品なのだ。
僕は、牧さんのこの解釈を聞いて、そのあまりの見事さに、この詩を見たときに他の解釈が出来なくなってしまった。芸術作品は多様な解釈を許すものなのに、この作品には計算された芸術として、その計算に気づいた読者には、他の解釈を許さないものがあると思った。
作者の安西冬衛が、このような意図を持って作ったのかどうかは僕は知らない。しかし、慧眼な読者なら、このように読みとってもらえるだろうと意図して、計算してこの作品を創っているのなら、安西冬衛という詩人はすごい人だなと僕は思う。
(中略)
芸術作品としての文章の場合は、正しい読み方というのはおそらくないだろう。それはさまざまな読まれ方をするという、鑑賞されるという点において芸術作品であることを主張しているからだ。論説文は鑑賞の対象ではない。それは理解の対象だ。しかし、鑑賞の対象となる芸術作品は、読み手の感性に従って読まれるのだ。
だから読み手の感性の違いによってそれはさまざまな読まれ方をする。それは芸術作品の宿命のようなものだ。しかし、読まれ方に多様性があるからと言って、それは鑑賞としてどれも同じとは言えない。芸術作品の鑑賞として、その表現の本質を捉えた深い鑑賞と、表面的な部分を捉えた浅い読み方との違いがあるだろう。芸術作品を材料にして、それの読み方を教えるなら、やはり深い読み方を教えて欲しいものだと思う。
(後略)
さらに、この詩がある授業で採りあげられていることについて、木下さんはつぎのように述べた。
「分析」という「鑑賞」ではないことを教えるための材料を教えるのなら、芸術作品を使うべきではないと思う。「分析」は、論理的な文章を対象にして行うべきだ。芸術作品を分析してしまったら、芸術の中の、誰もが賛成する部分を分析するしかなくなる。つまり、芸術としては実につまらないところを読むしかなくなってしまう。論理的な文章なら、本質的に優れた部分を分析することが出来るが、芸術作品ではそれが出来ないのだ。
「視点」を教育するなら、もっと水準の低い芸術作品を使うか、芸術作品でないものを教材にすべきだと思う。もちろん、水準の低いもので教えてもつまらなくなるので、優れた説明文を見つけてきて、他には解釈が出来ないという唯一の解釈を「分析」するような授業を組み立てるべきだろう。優れた説明文ならそういうものが見つかるはずだ。
安西冬の詩と分析に、僕はこのような意見を述べている。
安西冬衛のこの一行詩の記憶はあるが、小学校の教科書に載っていたとは知らなかった。それにしても、僕の感覚からすれば驚異的にことだ。この詩を示された小学生が、詩の味わいを理解できるのだろうか。できるとしたら、僕のこの半世紀余りの人生はいったい何だったろう、とさえ思う。
この詩は、作者の置かれていた境遇や、当時の地理的環境などもあって、ひとつの望郷詩とも読むことができるし、一行詩としてみたまま、漢字とひらがなの絶妙なコントラストとリズムを感じて読んでもいい。
「計算され尽くされた詩」という言葉があるが、自分の実体験からいうと、詩や文芸作品を創るとき、過大な計算が先にあると失敗することが多いのではないかと思う。
計算はいうなれば作為である。作為はおのずと勘のいい人には作為を感じさせてしまうものだ。
僕の場合、「よくできた」と実感できる作品は、ひらめきのなかから生まれることが多い。空想の何かから刺激された感情のひだが、自然に書かせてくれるという感覚。それは、夜中にぽつねんとしているときに生まれることが多いが、朝になって読み返してみると、醜い駄作に変わりはてていて驚くことがある。まるでシンデレラを乗せたきらびやかな馬車が、朝には腐りかけたカボチャに変わっているといった感覚だ。
いずれにしても、よい作品は結果として計算されたかのような姿形をしているのであって、始めから計算して生まれることは少ないと思う。
ただ、自然景観にも計算され尽くしたかの美を感じるように、ある種の必然性が芸術的美しさが形成されてゆくことが多い。たとえば、波に洗われて浸食された岩が、荒々しさと美しさを同居させている姿。あるいは季節の移ろいごとに、あるいは時間の経過ごとに姿をかえてゆくアルプスの景色が、人為では絶対に表現できない雄大で完璧な芸術性を見せてくれるように…。
評論の達人を名乗る人が、芸術作品を「分析」してみせ、自分の高尚(?)な分析結果を押しつけるということは、僕ら文芸の世界でも普段にみかける光景である。しかし、「分析」は、芸術の鑑賞眼を養うためのひとつの手法であって、芸術の大部分は「分析」しきれないという前提をもって、「分析」という技法をこころみる。ということではないだろうか。
アルプスを見たときの美しさを「分析」した結果は、分析者自身のなかに留めればいいことだと思う。他者には他者の感じ方があり、前例を示すことで想像のよろこびを摘みかねないからだ。
川柳など短詩の面白さは、独自の鑑賞にこそある。それを忘れて、他人の鑑賞文を読んでばかりでは自由な鑑賞力は育まれない。
矛盾するようだが、それらを踏まえたうえで、芸術(的作品)を理解するための訓練として「分析」は試みるべきだ。それは、自分自身の鑑賞する力をレベルアップしてゆくことになるからだ。
短詩の芸術性を、具象的作品からしか受け取ることができない人というのが、おなじ文芸仲間には多い、という現実から脱却するためにも、そういう読み方、訓練は必要だ。
それらを前提に内容についての意見交換があった。
木下 僕が、小学校での授業に違和感を感じるのは、その分析が鑑賞とは関係なく、分析のための分析になっているからだろうと思います。鑑賞のための前提としての分析なら、岬さんがおっしゃるように、必要で有効な分析だろうと思います。
岬 そうでしょうね。その部分は、きちんと書かないと誤解されてしまいます。文学や文芸批評で「批評のための批評」他者作品へ評者の自己主張の押しつけが過ぎるのではないかと感じる評論によく出会います。
僕は、批評は作品の深層にあるものを引き出したり、違った光りのあてかたで、立体化してみせたりということであるべきだと思っています。もってまわった難しい解釈してみせることで、原作品を変質してみせたり、書いてないことの付加を与えるというのは、批評者のあり方としては違うのではないかと…。
木下 映画の「いまを生きる」では、詩を分析する手法として、その詩の中に、どれだけの広がりがあるか、多様性があるかなどを数値で表して、グラフ化して比べるというものが出てきていました。これは、分析としては面白いものだと思いましたが、その数値化が画一的で、詩という対象が、あたかも自然の存在物のように観察されるという前提で、間違っていると思いました。
ある詩は、それがどれほど世界の広がりを持っているかよりも、“世界を深く捉えているか”が優れているとも言えるのではないかと思います。それを、とにかく広ければ価値があると考えるのは浅はかな鑑賞ではないかと思います。
岬 同感です。芸術を単純に数値化できるものか。できるとしたら、それは芸術解釈の固定化で傲慢ということではないか、と思います。
木下 計算された芸術というのは、僕は抽象絵画にそれを感じます。抽象絵画は、自然には存在しない美しさを、人間の思考力によって生み出す芸術だと僕は感じています。何かを写せば抽象が表現出来るのではなく、それは抽象であるが故に、人間の頭を通過しなければ表現出来ないような気がするのです。つまり、計算されなければ誕生しない芸術だと感じます。
岬 それについては、実のところよくわからないのです。抽象的な作品を創ったり書いたりしている人が、計算のもとに創作しているかというと、そうでもないのではないかと僕は感じます。しかし、成功作として完成されたものは、結果的に計算され尽くしたような姿をしている。見かけだおしの抽象作品は、計算がどこかで外れているのではないかという、不安定感がある。そんなふうに感じるのです。
木下 昔「コンポジション」と題された絵で、空間を赤と白の二つの色で切り分けた絵を見たことがありました。
そこに僕は、抽象的な「調和」というものの美しさを感じました。それは、まさに空間はそれ以外には分けられないのだという必然性を感じるような感動でした。それ以外の構成(コンポジション)では、この美しさは壊れてしまうという感じを抱きました。
岬 なるほど。しかし抽象作品は、鑑賞側の感性もさることながら、作者との相性もあるのではないでしょうか。
木下 安西冬衛の「春」にも、僕は抽象絵画のような美しさを感じたのです。これは、安西冬衛が、自然の中に発見した美しさを描写したものではなく、自らの抽象によって作り出したのではないだろうか、というような感じです。もしそうであるなら、僕もそのような詩を書いてみたいと思ったものです。
岬 木下さんは、数学の専門家ですが、音楽や文学にも優れた感受性をもちあわせています。逆に、文学をポジションにしていても、「てふてふ」が「蝶々」であっても、「何も感じない」という人もいると思います。
このように、作品から受ける触発は、からなずしも一様ではなく、作品との相性というものもありますから、共鳴しあえる作品と出会ったときに思いきり楽しめばいいのではないでしょうか。
蜂クリック