ジャンヌさんのコメントから、三島由紀夫の精神を形作っていたものを考えてみました。もちろん、真実は他人には伺い知れるものではないし、あるいは当のご本人でさえ解明してはいなかったかも知れません。
自分でもたびたび感じるのですが、ものを書くとき文中に“無意識だった意識”が現れることはよくあります。
小説中での恋愛、またその中のラブシーンは作家の想像力で書いているわけですが、それでも相手は実在の、過去に思いを寄せた人とのエピソードや会話をヒントに書かれたり、そのときの心情などを描写することでよりリアリティーのある文章になっているわけです。
エピソードーなどは事実としてあったことでなくても、作家の心の動きの中では“あったこと”がベースになりますから、それは無意識な精神の表出ともいえるのではないか、と思います。
ということで、三島由紀夫の作品から彼のシンボリックな精神の形成を推測してみました。ジャンヌさんがこのように書いておられます。
>当時三島は日本人の中でも英語でインタビューに答えられ、海外にも名の知れた数少ない国際人だったのではないだろうか。
>彼は海外から日本を見て「憂国」の念を抱き、命を掛けて訴えたかったのだろう。
三島由紀夫が、当時の大蔵省を辞めて20代最後の年に書いた小説は一躍その名を知られることになった『仮面の告白』でした。そして『愛の渇き』『純白の夜』『青の時代』『禁色』などを書いていますが(全部を読んだわけではないけれど)幼少期からの自分の内面的な葛藤、異性・同性への愛や感情の揺らぎなどをテキストとして書いていて、後の大胆な政治的活動までは予見されなせん。
51年頃に朝日新聞から特別通信員として世界一周取材旅行に行きました。そこでは、ことに南米ブラジルそしてギリシャで強い意識への影響を受けています。
朝日新聞の“太陽と肉体”という題だったと思いますが、そこから派生した『太陽と鉄』というエッセーにについて書いているブログより一部お借りします。
三島は、小説ではどうしても表現しにくいものが自分のなかに堆積しているように感じていると告白している。この「私」と、言葉として発せられた「私」の間にズレが生じること。言葉の「私」に収まらない、「私」とは何かと三島は考える。そして、たどり着いたのが「肉体」であった。
このエッセイのなかで、三島は言葉を不純なもの、肉体を汚染するものとして呪詛している。言葉を扱うのが小説家であるにもかかわらず、言葉を激しく嫌う。言葉は、この「私」から現実や肉体を奪うのだ。
こうして、三島が求めるのは言葉という媒介(媒体)を介さずに、直接現実と触れることだ。媒介を経ない直接的に世界とコミュニケーションを行うユートピアを目指す。つまり、このエッセイは、反媒介(メディア)論なのである。」
と指摘していますが、当時の「朝日」へ発表した記事では
「暗い洞穴から出てはじめて太陽を発見した…生まれてはじめて太陽と握手した…自分の改造ということを考えはじめた」「ギリシャ人は外面を信じた。過剰な内面性は必ず復讐を受ける。…肉体と知性の均衡だけがあって、『精神』こそキリスト教のいまわしい発明だ」
として、リオのカーニバルでみたダンサーたちの圧倒的な肉体美や、ギリシャはニーチェ的な「健康への意志」が、その後の三島由紀夫の行動のシンボリックな基礎部分になっていったのだと思います。
三島の代表作ともいえる『金閣寺』では、美からの呪縛から解放されるために、その美の象徴である金閣寺に火を放つという小説でしたが、作中で「世界を変えるのは認識だけだ」とうそぶく友人に、(三島意識の代弁者たる)主人公は「(総括は焼いて消し去るという)行為しかない」と、決意をさせています。
三島の精神の全体的な流れに通じていえるのは“滅びの美学”です。武士道も自らの肉体美も心酔した葉隠れ精神の“ 武士道というは死ぬことと見付けたり”に集約されています。
当時の騒然とした社会状況への嫌悪的絶望感もあったのかも知れませんが、言葉によるこざかしい議論を無意味に重ねるより“(暴力的手段であろうとも)信じる義のため行動して、パッと散ってやろうではないか”という三島式“滅びの美学”が積もっていったのではないでしょうか。彼の行動哲学が、文学としての表現にとどまるなら美しいものであったかも知れませんが、自衛隊による国体の転換(クーデター)計画まで行き着いてしまったわけです。
仮にも三島の思うように自衛隊や国家が動いたとしたら、行き着く先は誰もが想像できる“民主国家としての破滅への道”だったのではないでしょうか。
しかし、(たぶん彼も予感していた通り)クーデター計画は未遂に終わりました。
そしてその死により、一種の三島神話(滅びの美学、あるいは「憂国」の実践者)がひとり歩きを始めた、と僕は考えています。
青年期にたまたま三島由紀夫の私生活とすれ違う機会があったから、少しは興味をもって三島由紀夫の本を読んだりもしましたが、当時の僕は軟派的な寺山修司精神に傾倒していました。だから三島由紀夫そのものを深く考えてみることはありませんでした。今回は良い機会であったと思っています。
それにしても、三島由紀夫も寺山修司も唐十郎も青島幸男も生で見ていますから、振り返ってみると面白い時代に遭遇できたものと思っています。
ジャンヌさん
>決して私は三島崇拝者でも右翼でもありませんので、あしからず。
もちろんそのようには思いません。
「右翼」「左翼」と呼び合う分類や呼称も現在ではもはや過去の塵芥であって、そういう枠組みにとらわれない思考こそが時代をつくって行けると思っています。
今回の安倍総理の辞任騒動で、三島由起夫の事件を何となく思い起こした。
三島由紀夫は二・二六事件の青年将校たちの心情に共感をもっていた。それとともに、ただの飾り物としてまつりあげられた天皇の処遇、牙を抜かれた現行憲法への不満を抱き、自衛隊を煽動して、クーデターに近い方法での憲法改定を狙っていた。その一方で、自衛隊に体験入隊。以後、体験入隊を重ねていた。
69年の11月には、自衛隊とともに国会を包囲し、憲法改正の審議を行わせるという最終的計画案をもって自衛隊某幹部に会うが、望んだ回答は得られず、自衛隊に絶望し、実力行使へと傾いた。
70年11月25日、「楯の会」の4名と陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に到着。東部方面総監部総監と雑談を交わした後に、身柄を拘束。全隊員に集合を指示させた。
午後零時に「楯の会」の森田必勝とともにバルコニーに現れ、檄文を示し、憲法改正要求への決起を促す演説をぶつが自衛隊員からは冷笑やヤジを受けやおら、「天皇陛下万歳」を三唱した。
この姿は実況中継され、僕らもテレビにかじりついて見ていた。
零時10分過ぎ総監室に戻り、上半身裸になり切腹の作法にのっとり、両手で握った短刀を左脇腹に突き立てた。介錯をした森田も後を追って自刃した。
当時まだ20歳ほどだった僕は後楽園のボディービルジムに通っていた。そこにきた三島とたびたび会い、また楯の会のメンバーらしい青年たちも見かけていた。
そんなこともあって、目立ちたがり屋のナルチスト作家がそんなムチャな行動にでてまで憲法を変えたがる真意がどうしても理解できなかった。
その事件のおり、冷静に三島を見上げていた自衛官等の姿に、自衛隊は憲法という制約を受け止めているのではないかと、少しほっとした気分を抱いたものだ。
安倍晋三も三島由起夫も、改憲を狙ったが単なるドンキホーテの姿で消えてゆくことになった。しかし、自民党は改憲が党是になっているし、民主党のなかにも積極的改憲論をもつ人がいる。
つぎはどんな人が、どんな手をつかってくるのだろうか。ゆめゆめ気を抜いてはいられない。